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李 常傑〔陳朝の時期に記された歴史書『越史略』には「阮常傑」の名で登場する。「李」の姓が「阮」に改められた理由は、『安南志略』、『大越史記全書』などの書物によれば陳氏の祖先の諱・陳李が李と重なることを避けたものとされる(見黎崱『安南志略・李氏世家』、北京中華書局,307頁;呉士連等『大越史記全書』、東京大学東洋文化研究所,326頁)。〕(り じょうけつ、、1019年 - 1105年)原名呉俊、字常傑〔『東南亞歴史詞典・李常傑條』、206頁。〕)は、ベトナム李朝時代の宦官、武将である。、、の3代に仕えた。宋とベトナムの戦い(:zh:宋越熙寧戰爭)でベトナムを勝利に導いた名将として、ベトナムにおいて尊崇されている。 ==出生と仕官まで== 李常傑は、1019年に李朝の首都・昇龍(タンロン。現在のハノイ)太和(タイホア)坊に生まれた〔西川寛生『ベトナム人名人物事典』、75頁。〕。彼の家は10世紀に呉朝を興した呉権の後裔に当たるという。ベトナムの銘文資料によれば、李常傑は「細江句漏縣」つまり現在のバクニン省順城県の出身で、後に昇龍の太和坊に移籍したとされる。父親・李安語(リ・アング)は李朝に仕え郎将の地位に上り詰めた廷臣である。李常傑は幼少時より「姿貌揚逸」つまり容姿に優れ、騎射術の鍛錬を重ね、兵法を学んだ。やがて青年時代より宮廷に仕え、通瑞3年(1036年)に亡父の同僚の計らいで騎馬校尉に任ぜられたのち、23歳の時に浄身(去勢)して宦官となり〔朝陽科技大學──耿慧玲『越南文獻與碑誌資料中的李常傑』。 〕、乾符有道3年(1041年)、李常傑は皇宮に入り、侍衛および黄門祗候に任ぜられる〔西川寛生『ベトナム人名人物事典』、75頁。〕。 1054年には李聖宗(リ・タイントン)の即位を扶翼した功で奉行軍校尉、のちに検校太保、そして彰聖嘉慶3年(1061年)には清化、乂安などの地の察訪使となり、ムオン族の反乱を鎮圧した。〔〔呉士連等『大越史記全書』、255頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李常傑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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