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李康妃(りこうひ、生没年不詳)は、明の泰昌帝の側室。 == 生涯 == 万暦年間、太子朱常洛(のちの泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。別の選侍李氏(東李、のちの李荘妃)と区別して西李と称された。朱常洛に深い寵愛を受けた。また、母劉氏を失った朱由検(のちの崇禎帝)を養育した。万暦47年(1619年)、皇長孫朱由校(のちの天啓帝)の母・王才人が薨去し、太子の命により当時14歳だった朱由校の養育も任された。西李は太子の寵愛を鼻にかけ、傲慢な態度で朱由校や王安(幼時から朱常洛に仕える宦官)を見下した。 泰昌帝が即位すると、詔書により〔泰昌帝の側室のうち、最初の詔書で西李と傅氏(のちの傅懿妃)だけが正式に皇帝の妃嬪として封じられた。西李が皇貴妃に封じられ、傅氏が妃に封じられた。〕皇貴妃に封じられたが、皇貴妃に冊封する儀式の際に〔冊封する儀式の予定日が9月6日(西暦10月1日)であったが、9月1日(同9月26日)に泰昌帝が崩じた。〕泰昌帝が崩じた。朱由校は王安の手で文華殿にうつされ、群臣の前で即位した。気持ちが塞いだ西李は乾清宮に居座り、無礼な態度を取って天啓帝を激怒させた。西李たちは別宮へ追放されたが、後に呼び戻された。天啓4年(1624年)、光廟康妃(泰昌帝の廟号の光宗による)に封じられた。崇禎年間に、弟の李国安は一品都督同知に任じられた。 崇禎17年(1644年)3月、北京が李自成軍によって陥落すると、崇禎帝は懿安皇后(天啓帝の皇后)と皇太妃李氏(西李)に自害を命じたが、混乱のさなかでその命は伝わらなかった。李自成軍が皇宮に進入すると、西李は実家へ逃れて避難した。清代には、清朝政府から手当を受けて扶養された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李康妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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