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徳恵翁主(とくけいおうしゅ/トッキェオンジュ、1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、李氏朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。「翁主」は皇帝の側室所生の王女(皇女)の称号。 別名・俗称は李徳恵(イ・トッケ、または り とくえ)、宗徳恵(そう とくえ)、梁徳恵(ヤン・トッケ)、徳恵姫(とくえひめ)。 == 生涯 == 日韓併合後の1912年、日本の王公族・徳寿宮李太王となっていた高宗と側室・梁氏との間に生まれた。1925年に12歳で渡日し東京の学習院に留学、1930年に旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁いだ〔この縁談があった際、外国人の女である徳恵を武志が娶らされる事に対して、宗家側からの反発が少なからずあったという。〕。武志は徳恵を非常に寵愛し、2人の仲は睦まじく、2年後の1932年8月14日に長女正恵(まさえ)が生まれた。 しかし、徳恵は精神・知能双方に先天性疾患ならびに障害を抱えており、その病状は少女期から新婚時代には小康状態にあったが、正恵出産から数年後に再発した〔韓国側ならびに韓国寄りの立場を取る一部の日本の学者などは、徳恵の精神ならびに知能疾患について「日帝によって強制的に単身で日本に留学させられた上、醜い日本人の男と無理やり結婚させられ、子供まで妊娠・出産させられた挙句、夫を含む宗家一族はもとより、その女中たちにまで虐待され続けた」事が原因である後天性疾患であると強硬に主張し続けている(『朝鮮朝宮中風俗の研究』第十章六節 斜陽王室に生れたの徳恵翁主の悲劇 2008年、金用淑著 / 大谷森繁監修 / 李賢起訳 法政大学出版局 ISBN 4588080296)〕。武志の献身的な介護の甲斐なく症状は悪化の一途を辿り、1955年に徳恵の実家・李家から宗家に対する離縁要求により、武志の反対も空しく徳恵は夫との離婚を余儀なくされ、母方の姓を名乗って梁徳恵となり〔ただし離婚後も日本国籍のままで韓国籍にはなれなかった。本馬恭子『徳恵姫』p.235を参照。〕、1962年に帰国した。 帰国後は異母兄:李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内楽善斎に住み、1989年4月21日同所にて死去。長らく病に伏していたと言う〔1984年7月2日 読売新聞「[人]李方子=4 長く祖国喪失 離散の歴史 李朝の孤塁を守る」〕。 のちに、詩人でもあった武志は、寵愛した徳恵との別離の深い痛みと悲しみを山幸彦と豊玉姫の離別譚に託した詩を綴っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳恵翁主」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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