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李 盛鐸(り せいたく)は清末民初の政治家・外交官。北京政府の要人。字は椒微。号は木斎。 == 事績 == 1889年(光緒15年)、殿試一甲第二名(榜眼)として、進士に及第する。以後、江南で官暦を重ね、公立京師大学堂総弁もつとめた。1898年(光緒24年)10月、日本へ視察に赴き、そのまま使日欽差大臣(駐日公使に相当)に任じられた。 1901年(光緒27年)11月に任務を終えて帰国し、内閣侍読学士、順天府署理太常寺卿を歴任した。1905年(光緒31年)9月、駐比利時欽差大臣(駐ベルギー公使に相当)に任じられる。翌年、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の双方から名誉博士の学位を授与された。同年9月に帰国し、山西提法使に任じられる。以後、同省の布政使、署理巡撫と昇進した。 中華民国成立後も、山西民政長として暫時留任する。1912年(民国元年)3月、袁世凱により総統府政治顧問に招聘された。翌年6月、孫宝琦とともに日本へ赴き、外交事務に携わった。 1916年(民国5年)6月、熊希齢とともに、民彝社という組織を結成した。翌年6月、李経羲内閣で署理農商総長兼全国水利局総裁に任じられた。翌月の張勲復辟では、農工部尚書に任じられたが、実際には就任しなかった。復辟失敗後、段祺瑞内閣でも当初は署理農商総長となったが、わずか数日で辞任している。 1918年(民国7年)7月、参議院議員に選出され、12月には参議院議長となった。翌年2月、国際連盟同志会理事をつとめた。1921年(民国10年)11月、羅振玉らと敦煌経籍輯存会を主催している。1925年(民国14年)9月、段祺瑞が臨時執政となると、国政商榷会会長に任じられた。 1937年(民国26年)、天津にて病没。享年79。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李盛鐸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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