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洛川君(朝鮮語">朝鮮語: 낙천군、1720年11月26日(康熙59年10月21日) - 1737年5月5日(道光16年3月20日)は、李氏朝鮮の王族。本貫は全州李氏。諱は「縕」。字は「蘊仲」。李埰と柳氏の第一子。 血筋は宣祖の仍孫に当たり、元の身位は両班であったが、粛宗第六子延齢君の家督相続を受けると、王族として復権するが、17歳で卒去した。 卒後は達善君が家督相続をしたが、不祥事が起こり、璿源系譜紀略から除籍された。 ==生涯== 1720年李埰と柳氏の第一子として誕生する。血筋は宣祖の仍孫に当たる。粛宗第六子延齢君の家督相続を受けて、1734年12月24日洛川君に封爵、承憲大夫〔大典会通では資憲大夫。官位は正二品下階。〕の官位を受けた。〔『承政院日記』(1734年甲寅/雍正12年) 旧暦11月30日(辛丑) 〕1735年1月11日五衛都摠府都摠管に任官した。〔『承政院日記』(1734年甲寅/雍正12年) 旧暦12月18日(己未) 〕1月18日五衛都摠府都摠管を免官された。〔『承政院日記』(1734年甲寅/雍正12年) 旧暦12月25日(丙寅) 〕2月17日崇憲大夫〔大典会通では正憲大夫。官位は正二品上階。〕に昇格した。〔『承政院日記』(1735年乙卯/雍正13年) 旧暦1月25日(丙申) 〕5月26日五衛都摠府副摠管に任官した。〔『承政院日記』(1735年乙卯/雍正13年) 旧暦4月5日(乙巳) 〕 6月7日五衛都摠府副摠管から五衛都摠府都摠管に異動した。〔『承政院日記』(1735年乙卯/雍正13年) 旧暦閏4月17日(丙戌) 〕〔『承政院日記』(1735年乙卯/雍正13年) 旧暦閏4月17日(丙戌) 〕1736年1月20日五衛都摠府都摠管を辞職した。〔『承政院日記』(1735年乙卯/雍正13年) 旧暦12月8日(癸酉) 〕4月9日嘉徳大夫〔大典会通では崇政大夫。官位は従一品下階。〕に昇格した。〔『承政院日記』(1736年丙辰/乾隆元年) 旧暦2月29日(癸巳) 〕5月21日京畿道金浦市通津邑に在る李埰の墳墓に墓参りした。〔『承政院日記』(1736年丙辰/乾隆元年) 旧暦4月11日(乙亥) 〕9月19日綏徳大夫〔大典会通では崇禄大夫。官位は従一品上階。〕に昇格した。〔『承政院日記』(1736年丙辰/乾隆元年) 旧暦8月15日(丙子) 〕1737年9月28日卒去した。〔『承政院日記』(1737年丁巳/乾隆2年) 旧暦9月8日(庚寅) 〕卒後は黄海北道開豊郡嶺井里に埋葬された。〔『承政院日記』(1740年庚申/乾隆5年) 旧暦9月8日(丙子) 〕 結婚については、当初は金致万の娘が候補に選ばれたが、洪致中との肉体関係が問題になり、次に徐宗秀の娘が候補に選ばれ、これを徐宗秀が拒否したが、英祖は徐宗秀を軟禁して、1737年3月19日郡夫人徐氏と婚礼を挙げた。〔『承政院日記』(1737年丁巳/乾隆2年) 旧暦2月16日(甲戌) 〕 卒後は達善君が家督相続を受けたが、自殺するなどして離縁する事となり、姑嫁の間柄の郡夫人徐氏と郡夫人慎氏が悶着を起こしては騒動に至って、洛川君は璿源系譜紀略を除籍された。事実上これにより延齢君の家督相続を受けたのは恩信君とされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洛川君」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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