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李 自成(り じせい)は、中国明末の農民反乱指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。 == 生涯 == === 農民反乱 === 明は駅站と呼ばれる駅伝制度を敷いていたが、崇禎帝の時代に経費節減のため廃止された。駅站廃止によって失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱を起こすことになる。延安府米脂県(現在の陝西省)出身の李自成もその中の一人であった。 天啓7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加した。その間の朝廷は満州族対策に追われて満足に反乱対策を行えず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省)まで迫るほどになった。 その後、官軍の反撃により押し返され、河南へと移動する。この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などがいた。李自成は高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったが、この時の作戦会議「滎陽大会」で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、さらに翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が名乗っていた闖王(ちんおう)の称号を名乗り、反乱軍の首魁となった〔『明末農民軍名号考録』四川省社会科学院出版社、1984年、書号11316・9〕。ただし「滎陽大会」は清初の書物で創作された伝説であり、実際にあったできごとではないとされる〔高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書、1989年〕。 しかし、高迎祥の死によって反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西へ退却し、さらに山野に隠れざるを得なくなった。このことで李自成軍の勢力を軽視した官軍は、湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。 この地で挙人の李巌と出会い、「均田」(耕地の平等な分配)と「免糧」(当面の間租税を免除する)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった。しかし、李巌も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている。また、牛金星ら知識人を陣営に取り込んでいく事になる。 この勢いに乗って、李自成軍は崇禎14年(1641年)には洛陽を陥落させ、この地にいた万暦帝の三男の福王朱常洵を殺害した。福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢により多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李自成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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