|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 李 : [り, すもも] 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina ・ 錦 : [にしき] 【名詞】 1. brocade
李 錦綸(り きんりん)は中華民国の外交官・政治家。祖籍は広東省台山県。 == 事跡 == 華僑の家庭に生まれ、シカゴ大学で法学士、ニューヨーク大学で法学修士をそれぞれ取得している。1911年に帰国し〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』563頁、劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』939頁による。『最新支那要人伝』204頁は1906年帰国としている。〕、広東省交渉署政務科科長に任ぜられた。中華民国成立後、国民党に加入したが、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、一時国外へ亡命している。 1917年(民国6年)、李錦綸は孫文(孫中山)の護法運動に参加し、孫の秘書を務めた。翌年4月、広州軍政府外交部政務司司長に任ぜられ、1920年(民国9年)、粤海関監督兼広東交渉員となっている。1922年(民国11年)、私立上海滬江大学副校長兼政治学教授に転じた。 国民政府成立後の1927年(民国16年)11月、李錦綸は外交部参事に任ぜられる。翌1928年(民国17年)には、常設仲裁裁判所代表となり、10月、駐メキシコ公使となった。1929年(民国18年)10月、外交部政務次長に昇進し、1931年(民国20年)10月に各派合流・国民政府改組の間に外交部長を暫時代理している。まもなく政務次長・部長代理を辞し、翌年、在米華僑への宣慰やアメリカ政府との折衝のため渡米した。1933年5月、駐ポーランド兼駐チェコ公使に任ぜられる。翌1934年6月、駐ポルトガル公使に転じ、1943年9月までこれを務めた。その後は外交部顧問となり、アメリカで国民政府の宣伝活動に従事している。 1956年2月21日、ニューヨークにて病没。享年71。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李錦綸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|