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村岡 兼造(むらおか かねぞう、1931年8月27日 - )は、日本の政治家。秋田県本荘市(現・由利本荘市)出身。勲一等旭日大綬章。血液型B。 衆議院議員(9期)、郵政大臣(第50代)、運輸大臣(第64代)、内閣官房長官(第62代)、自由民主党国会対策委員長(第34代、第42代)、自由民主党総務会長(第42代)、平成研究会会長代行を歴任した。 == 来歴・人物 == 秋田県議会議員を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。1976年の総選挙で落選したが、田中角栄から都内事務所を都合されたことなどの厚遇を受けて再起を図り、1979年の衆院選で政界復帰を果たす。 竹下派時代は中西啓介と共に小沢一郎の側近として知られていたが、1992年の東京佐川急便事件で竹下派が分裂すると、中堅議員の中村喜四郎・西田司・佐藤信二らとともに反小沢の急先鋒となって小渕恵三を後継会長に推し、小沢などの羽田派を離党に追い込んだ〔大下英治の『闘争!角栄学校』によると、村岡が親小沢から反小沢に転向した理由として、小沢の別の側近から「村岡さんたち(の中堅議員)が竹下さん(派閥のオーナーである竹下登のこと)たちに小沢さんの情報を流している」と讒言されたことが原因としている〕。その後は、小渕派幹部として、自民党国会対策委員長、内閣官房長官、自民党総務会長など要職を歴任したが、次第に同派の野中広務と確執を深めていく。 2003年の自由民主党総裁選挙にて橋本派は藤井孝男を擁立したが、村岡は橋本派の会長代行であり藤井の兄貴分でありながら藤井ではなく森派の現職かつ1972年衆院当選同期の小泉純一郎の支持に回ったために、野中に「毒まんじゅう(この年の流行語大賞を受賞)を食らった」と揶揄された。 小選挙区移行後の総選挙では御法川英文とコスタリカ方式を取っており、2003年の第43回衆議院議員総選挙では比例区に回る予定であった。しかし、選挙前に御法川が死去したことによりコスタリカ方式が解消されたと判断し、村岡は小選挙区で出馬する。ところが、御法川側が反発して長男の御法川信英を擁立し、弔い合戦という形になった。結局村岡は落選し、政界引退に追い込まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村岡兼造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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