|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 村 : [むら] 【名詞】 1. village ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 実 : [み, じつ] 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result
村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月26日)は、大正・昭和初期の日本の映画監督、脚本家、俳優。日本映画監督協会初代理事長。 新劇運動から帰山教正の映画芸術協会に参加、小山内薫の松竹キネマ研究所で『路上の霊魂』を監督したことで知られる。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の「蒲田調」に対して男性的で重厚な日活現代劇の基礎を築いた。映画監督栗山富夫の父の従兄弟にあたる〔茨城県知事公室広報広聴課『メルマガいばらき2002年9月15日号Vol.2』 〕。 == 経歴 == ===少年時代=== 1894年(明治27年)3月2日、東京市神田区小川町(現千代田区神田小川町)に大日本図書株式会社重役村田五郎の一人息子として生まれる。当時会社が京橋にあったので、やがて銀座に引っ越すが、神田の家に士族であった農商務省鑑定官の祖父が残っていたので、銀座と神田とを行き来するようになり、父の職業の関係上読書に親しみ、また祖父の趣味・職業の関係上古美術に親しみ品評にならされて育った〔『監督 村田実』 215-217頁〕。また敬虔なクリスチャンの家であったので幼時に洗礼を受けている〔『一スジ二ヌケ三役者 』 176頁〕(洗礼名「ヨゼフ」)。 1906年(明治39年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。中学の先輩である永井荷風を愛読し、家に芝居見物を禁止されていたため近所の洋画専門上映館錦輝館に替り日ごとに通う。この時期の錦輝館には中学の先輩である帰山教正、島津保次郎、五所平之助も足繁く通っている〔『聞書き キネマの青春』 243頁〕。そして中学卒業前に初めて舞台を観劇し、エドワード・ゴードン・クレイグの舞台デザインに感銘を受け、演劇の道を志すことになる。家には進学を勧められたが、当時の「教育制度に反感をおこして」いた上に病気がちのため医者が進学を勧めず、卒業後は慶應義塾文科の聴講生となり、白馬会の葵橋洋画研究所へ絵を習いに通い、帝劇文芸部の給仕を経て、栗島狭衣(栗島すみ子の義父)や石川木舟の書生として働いた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村田実」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|