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杜叔毗(と しゅくび、? - 567年)は、中国の南北朝時代の人物。字は子弼。本貫は京兆郡杜陵県。 == 経歴 == 南朝梁の辺城郡太守の杜漸の子として生まれた。幼くして父を失い、母に孝事して知られた。学問を好んで精励し、特に『春秋左氏伝』に詳しかった。梁に仕えて、宜豊侯蕭循の下で府中直兵参軍をつとめた。 551年(大統17年)、西魏の大将軍の達奚武が漢中を攻撃した。552年(廃帝元年)、達奚武が南鄭で蕭循を包囲すると、蕭循は叔毗を長安に派遣して請和を求めさせた。西魏の宇文泰は叔毗と会見して礼遇した。叔毗が帰国しないうちに、蕭循の中直兵参軍の曹策と参軍の劉曉が、城とともに達奚武に降ろうと図った。ときに叔毗の兄の杜君錫は蕭循の下で中記室参軍であり、甥の杜映は録事参軍、杜映の弟の杜晰は中直兵参軍をそれぞれつとめていた。曹策らは杜一族が自分たちに同心しないことを恐れて、その反乱計画を誣告し、勝手に殺害した。まもなく蕭循は曹策らを攻撃して捕らえ、劉曉を斬ったが、曹策は逃亡した。 蕭循が達奚武に降ったとき、曹策は長安に入っていた。叔毗は泣いて兄の横死と曹策の罪について訴えたが、西魏の朝廷は降伏前のこととして、罪を追及できないと結論した。叔毗は復讐を望んだが、母に罪が及ぶことを恐れて決行をためらった。母は叔毗の考えを知ると、その決意を励ました。叔毗は母の言葉に感動し、後に京城で手ずから曹策に斬りつけ、その遺体の四肢を切断して、復讐を遂げた。官の縛について処罰を願い出たが、宇文泰にその壮気を賞賛され、特に一命を赦された。 ほどなく叔毗は都督・輔国将軍・中散大夫の位を受けた。母が死去すると、辞職して喪に服し、哀哭のあまり骨の立つまで痩せ細った。喪が明けると、宇文護に召されて、その下で中外府楽曹参軍となり、大都督の任を加えられた。使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じ、義帰郡太守を代行した。曹策に殺害された兄の杜君錫と一族の遺体は梁州にあったが、武帝の許しを得て、長安に迎えて葬った。ほどなく硤州刺史に任じられた。 567年(天和2年)、衛国公宇文直の下で南征に従ったが、敗れて陳軍に捕らえられた。屈服する様子を見せなかったため、殺害された。 子に杜廉卿があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杜叔毘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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