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この記事では東京駅の歴史(とうきょうえきのれきし)を説明する。東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914年(大正3年)12月20日に開業した。その後中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。 しかし第二次世界大戦によりすべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。大戦後丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年(昭和39年)10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。 さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1990年(平成3年)6月20日には東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年(平成24年)10月には、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。 == 東京の鉄道網のはじまり == 東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋 - 横浜間が開通したことに始まる〔。この時の新橋駅は後に貨物駅となった汐留駅で、横浜駅は現在の桜木町駅であった〔。この際の新橋駅の位置の選定経緯は明確にされていないが、大名屋敷の跡地を入手できて駅や車庫、鉄道工場を建設するために必要なまとまった土地を確保できたこと、市街地を避けて横浜への路線を伸ばせる位置であったこと、当時から繁華街であった銀座にも比較的近かったことなどが理由であろうと推測されている〔。 その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されたが、東海道と中山道のどちらを経由するかを決定するためには時間がかかった〔。中山道経由で建設する際の東京における経路としては、お雇い外国人のリチャード・ボイルの調査報告による、新橋から皇居の東側を北上する現行の東京駅経由ルートに近いものや〔、開拓使の役人松本荘一郎とお雇い外国人ジョゼフ・クロフォードの調査報告による小名木川駅を起点として北上し、既設の官設鉄道(国鉄)線との連絡は品川駅から分岐する線によるもの〔などがあった。政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいとし、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線を支持したことから、一旦は中山道経由に決定された〔。 当初国営を原則とした鉄道であったが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換した〔。これを受けて発足した最初の私鉄が日本鉄道で、最初の建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京 - 高崎間の路線を建設することになった〔。日本鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、1883年(明治16年)7月28日に上野 - 熊谷間が開通した〔。しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになったこともあり、1886年(明治19年)に政府の方針が転換し、東海道経由で東西連絡鉄道を建設する方針に変わった〔。これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋 - 横浜間の鉄道〔から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に東海道本線新橋 - 神戸間が全通した〔。一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通した〔〔。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通した〔。 一方、東京の西に伸びる中央本線は、私鉄の甲武鉄道が建設した〔。1889年(明治22年)4月11日の新宿 - 立川間を皮切りに順次開通し、新宿より都心側では1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで開通した〔〔。東京の東に延びる総武本線は、やはり私鉄の総武鉄道が建設した〔。総武鉄道の資金力では隅田川を横断することが難しかったこともあり、隅田川の東側に位置する両国橋駅(後の両国駅)をターミナルとして1904年(明治37年)4月5日に開通した〔。 官設鉄道と孤立して建設された日本鉄道の資材輸送が問題になったことから建設されたのが山手線で、1885年(明治18年)3月1日に赤羽 - 品川間が開通し、続いて田端 - 池袋間が1903年(明治36年)4月1日に開通した〔。この開通により官設鉄道線と日本鉄道線が連絡され、特に貨物輸送の面では市街地を荷車で運搬する必要が無くなった〔。しかし旅客輸送の面では当時山手線はまだ単線で不便であったことから、南北を乗り継ぐ旅客は新橋駅と上野駅の間で徒歩または人力車により連絡するのが普通であった〔。1882年(明治15年)には新橋と上野の間で馬車鉄道の運行が始まり、1時間に70台もの馬車が出発するほどの大盛況となった〔。1903年(明治36年)に馬車鉄道は路面電車に置き換えられたが〔、もともと繁華街の路面に敷かれていたこともあり増大する交通需要に対応しきれず、事故が多いことも問題となっていた〔。こうしたことから、自然に新橋と上野を結ぶ鉄道路線の計画が生まれることになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京駅の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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