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東慶寺 : ミニ英和和英辞書
東慶寺[とうけいじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

東慶寺 : ウィキペディア日本語版
東慶寺[とうけいじ]

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時開山覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった〔寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。〕。また江戸時代には群馬県満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。
== 歴史 ==

=== 鎌倉時代 ===

東慶寺に残る過去帳等によれば「開山潮音院覚山志道和尚」とある〔鎌倉市史・寺社編 p.341〕。覚山尼安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権北条時宗の夫人である。
1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と安名し〔円覚寺史1964 p.40〕〔鎌倉市史・寺社編 p.341〕。そして翌1285年(弘安8年)に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は建立されたと伝える〔井上禅定1955 p.10〕。
ただしそう伝える東慶寺の古文書は江戸時代のものであり、現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である〔鎌倉市史・寺社編 p.341〕〔史籍集覧26 「五山記考異」 p.615〕〔この「五山記考異」は『改定史籍集覧』第26冊 に「五山記考異/附住持籍」として収められている。史籍集覧が底本とした彰考館本(関東大震災で焼失)では後半の「附住持籍」は「五山住持籍」として別にあったものを史籍集覧・編纂時に現在の形にしたらしい。現状の全体では江戸時代初期とかんがえられているが(日本史文献解題辞典 p.166)、『鎌倉市史・寺社編』が戦国時代天文頃としたのは前半部分と思われる。〕。
鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は梵鐘の銘文である。鎌倉幕府滅亡前年の1332年(元徳4年)に東慶寺の梵鐘が完成した。ただし今は東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある〔鎌倉市史・寺社編 pp.342-343〕〔鎌倉市史・考古編 pp.306-312〕〔
新編相模国風土記稿 には「小田原陣の時失いしと云う、その鐘今豆州韮山本立寺にあり」と記す(新編相模国風土記稿 p.213)。しかし現在ではそうは思われてはいない。
この鐘鋳造の翌年の1333年(元弘3年)5月に鎌倉が新田義貞らに攻められ、子の北条高時以下一門が自害し北条氏が滅びるが、覚海円成尼は伊豆国韮山の地を安堵され、一族の女性たちと共に移り住み、尼寺円成寺を建立して一門を供養する。足利直義も1339年(暦応2年)にこの周辺の五ヶ郷と、駿河国の2つの郷を円成寺の寺領とし寄進している。
それらのことから梵鐘は覚海尼によってか、あるいはその後かに伊豆の円成寺に運ばれ、その円成寺が廃寺となったあと、韮山の有力者で徳川幕府の代官だった江川氏の菩提寺・本立寺に移されたものと思われている。(三浦勝男「東慶寺境内散策」『駆込寺』収録 p.191)〕。その銘文によると大檀那は覚山尼の子、9代執権北条貞時の妻覚海円成である。住持に果庵了道の名があり〔現在東慶寺に残る過去帳には四世住持は「果庵」でなく「杲庵」と書かれているが符合する。しかし1685年(貞享2年)刊行の「新編鎌倉志」には「四世ハ須宗和尚」とあり、東慶寺の昔の鐘にある果庵了道が「何代目ノ住持ト云事未考」と割書で注記している(新編鎌倉志 pp.125-126)。
「新編鎌倉志」は1673年(延宝元年)に光圀自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に作製されたが、水戸光圀は江戸藩邸の近侍に自分が着く前に、主要な寺、それぞれの土地の長老にその土地の歴史について説明出来るように用意をさせろと命じている。従って「新編鎌倉志」の東慶寺に関する記事はその当時の東慶寺の寺役人が書いた由緒書の写しを基にしているはずである。「新編鎌倉志」の編者は伊豆国韮山本立寺にある元東慶寺の梵鐘の銘文を知っていたが、その当時東慶寺ではそれを知らなかったことにもなる。僧籍でも戒名が生前の名と別なことはあり年代的には四世前後だが、東慶寺に現存する過去帳は「新編鎌倉志」以降の21世永山尼の示寂後のものである。ともあれ住持果庵了道尼は北条氏俗縁の人と見られている(井上禅定1955 p.37、鎌倉市史・寺社編 p.342)。〕、
他に首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の名も見える〔南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧(関口欣也1997 pp.71-72、井上禅定1955 p.38)
であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。〕。このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、かなりの規模を持つ北条得宗家ゆかりの尼寺であったことは確実とされる〔鎌倉市史・寺社編 pp.342-343〕〔なお、東慶寺の「由来書」「旧記之抜書」には「往古草庵道心寺」があって、頼朝の伯母の美濃局がそれを比丘尼寺とし、覚山尼が再建し中興となったと記されているという(穂積重遠1942 p.41)。江戸時代の観光本「鎌倉物語」にもそう書かれているが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない(鎌倉市史・寺社編 pp.340-341)。新編鎌倉志p.125)や、新編相模国風土記稿p.209)の取材に当時の東慶寺は北条時宗室の創建と答え、1768年(明和5年)に寺社奉行に差し出した事例書口上書でも北条時宗室が「寺草創」(穂積重遠1942 p.43)とあり、現在の東慶寺も覚山尼を開山としている(井上禅定1955 p.5)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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