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松原 忠司(まつばら ちゅうじ、天保5年(1835年)? - 慶応元年9月1日(1865年10月20日))は、新選組隊士(四番隊組長、柔術師範)。号は柳趙斎と思われる。 == 生涯 == 播磨国小野藩の藩士の子として生まれる。初名は小太郎。松原弥三左衛門は親族と思われる。 安政年間に「徘徊御免」となり、その後は大坂で関口流柔術(北辰心要流、不遷流とも)の道場を開いていたといわれる。なお、永倉新八は松原を「大坂浪人」としている。 文久3年(1863年)5月までに、新選組の前身である壬生浪士組に入隊している。同年の八月十八日の政変では仙洞御所前、及び禁裏御所南門の警備を担当したが、その時の風貌は坊主頭に白い鉢巻を巻き、脇には大薙刀を携えるという異様なものであり、そこから今弁慶の異名をとった。 元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三の隊に属し、戦功を挙げ報奨金15両を賜る。こうした活躍もあり、慶応元年(1865年)4月の組織再編で四番組組長・柔術師範となる。 同年9月1日死去。享年31。新選組の記録では病死とされているが、その死については諸説ある(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通する。一説には銃殺とも)。墓は光縁寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松原忠司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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