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松平 康任(まつだいら やすとう)は、江戸時代後期の大名、老中。石見浜田藩第3代藩主。松井松平家8代。寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中と幕府の重職を歴任した。 == 生涯 == 分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため、康定の婿養子となり家督を相続する。 文化・文政期の幕府の実力者水野忠成の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任する。 忠成同様、賄賂には大変鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から6,000両もの賄賂を受け取り、その結果、実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちに康任失脚の布石となってしまう。 忠成死後、老中首座となったが、このころから閣内は康任派と水野忠邦派の抗争が激化する。天保5年(1834年)に発生した仙石騒動において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた。 〔仙石小太郎は八丈島に遠島処分とされたが、八丈島に向かうために立ち寄った三宅島で発病し、死亡した。小太郎の荷物は皆盗まれ、寝巻きしか残っていなかったと伝わる。〕 また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられた。〔代わりに浜田藩に入った松平武厚の養子松平斉良は第11代将軍徳川家斉の実子であるため、康任の不手際に乗じて元の館林藩よりも豊かな浜田藩を斉良に与えようとした側面もある。ただし、斉良は藩主を継ぐことなく没している。〕 天保12年(1841年)、63歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平康任」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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