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柴田 宵曲(しばた しょうきょく、1897年(明治30年)9月2日 - 1966年(昭和41年)8月23日)は、日本の俳人、歌人、随筆家、書誌学者。本名は泰助。博識で、談話筆記・編集・校正に長じ、知友の著書の刊行に貢献した。 == 生涯 == 東京市日本橋区久松町(現・東京都中央区日本橋久松町)の洋傘・毛織物卸商、柴田半六と妻せつ(旧姓永井)との次男に生まれた。 1904年(明治37年)(7歳)、蛎殻町の有馬小学校に入ったが、家が移り、1907年、根岸小学校の4年生に転じ、その頃から俳句を投稿し始めた。1910年、開成中学に進んだが、実家の都合で半年後退学し、以降は上野図書館で読書・筆写に徹し、夏目漱石や、当時故人であった正岡子規に傾倒した。歌・俳句・文章の投稿・投書を続けた。 1913年、京北中学校への転入に失敗、新聞社の臨時校正係を務めてやめるなどがあった。句会に出席するようになった。 1918年(大正7年)(21歳)、ホトトギス社の編集員になった。その年、宝井其角の『五元集』の輪講会が、寒川鼠骨・高浜虚子・三田村鳶魚・林若樹・内藤鳴雪らで開かれ、その書記を命じられ、メモして纏める原稿が好評で、輪講仲間には重宝がられた。 子規の同郷の門弟の俳人だった寒川鼠骨に好かれて師事し、子規譲りの鼠骨の清貧を習った。第一次『子規全集』編纂に尽力。ホトトギスの訪問記事のために多くの文人を訪ねた。句会の幹事も務めた。能・狂言を知って好いた。吟行も始めた。 1922年、篠原温亭の俳誌『土上』(どじょう)の創刊に加わった。其角の輪講が一段落したのを機に、1923年ホトトギス社を退社した。鼠骨とアルスの北原鉄雄との間で『子規全集』出版の企画があった〔岩波文庫版『団扇の画』p.238〕。関東大震災後の1924年に話が進み、宵曲は遺族の住む子規庵に日参して草稿を浄書した。全15巻の全集は、1924年から1926年にかけ出版された。 1924年、鼠骨が始めた月例の『子規庵歌会』に加わって詠み、筆記役も務めた。1926年から1930年まで、三田村鳶魚の江戸文化の輪講を載せる『彗星』誌のために、筆記と編集をした。三田村のための口述筆記と編集は、その後も続けた。1930年、『子規庵歌会』機関誌として創刊された『阿迦雲』に寄稿し、輪講の筆記もした。 1928年(昭和3年)(31歳)、故篠原温亭の長女小枝子と結婚し、のち長男久樹を得た。 1931年(昭和6年)から政教社に勤め、1935年まで『日本及日本人』誌の編集に携わった。頼まれて1938年に復職し、五百木瓢亭没後の同社は好かなかったけれども、鼠骨に励まされ、1945年の解散まで続けた。 1935年、主宰が嶋田青峰に代わっていた『土上』を離れ、『谺』を創刊した。戦時中の休刊を挟んで1966年まで、その巻頭言を書いた。 1939年、黒羽藩主大関増業の『止戈枢要』の目録を作った。須永元の蔵書()を整理した。依頼される談話筆記と編集の合間に吟行・句会を続けた。 1945年(昭和20年)(49歳)、子規庵(原稿資料を保存している土蔵は無事だった)が、大空襲で被災した。1947年、寒川鼠骨がその再建資金のために行った『子規選集』(文庫版で報文社)編集出版を、手伝った。吟行、口述筆記、輪講を再会した。1949年には、『谺』誌を復刊した。 1956年 - 1962年、三田村鳶魚の著書を分類整理して、『江戸ばなし集成』(20巻、新版が10巻)、『輪講叢書』(7冊)を編んだ。『未刊随筆百種』(新版.中央公論社 全12巻)の校正にもあたった。編著『鳶魚江戸学』(中央公論社)に詳しく紹介されている。晩年は岡本経一の青蛙房や、八木福次郎の日本古書通信の元での執筆が多くを占めた。 1965年半ば頃から不調となり、1966年春に膵臓癌の手術を受け小康を得たが、術後4ヶ月で亡くなった。清温院泰山宵曲居士。広尾の祥雲寺に葬られた。『谺』は、宵曲追悼号の第187号を出し終刊した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柴田宵曲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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