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根岸 浜吉(ねぎし はまきち)は、浅草の興行師である。2人おり、初代は浅草六区の大立者として知られる。 == 初代 == (1827年 - 1912年)根岸興行部の創立者であり、浅草公園六区に初めて劇場をつくったことで知られる。 1827年(文政10年)、常陸国筑波郡小田村(現在のつくば市小田)に生まれる。1868年の明治維新時にはすでに41歳であった。 明治初年、「道化踊」が東京市内で流行り、1879年(明治12年)まで深川区および下谷区の一部以外は興行が禁止されていたが年末に解禁になり、浜吉は1886年(明治19年)年5月、浅草六区に興行場を開くべく申し出た。これはいったん不許可となった。同年11月、東京府は警視庁に浅草寺など3か所の公園にまとめてはどうかと通達したところ、「公園」の本来の用途を理由に強硬な反対の回答をした。浅草で許されなかった「道化踊」は他所では月間1.5万人の動員力を持ち、庶民の要望に応えるかたちで警視庁は1887年(明治20年)6月、これを許可した〔古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』(1980年)の記述を参照。ジェトロアジア経済研究所のサイト内の「技術と都市社会 」にその全文がある。浜吉の名は「道化踊」の開設を申し出た「根岸浜吉なるもの」として警視庁の史料に名を残している。〕。 そこで浜吉は還暦になんなんとする同年、興行会社「根岸興行部」を設立、浅草公園六区に同地初めての劇場となる「常磐座」(のちの常盤座)を建てた。「常磐座」の名称は出身地の常磐にちなんでいる。浜吉は、歌舞伎・新派劇・連鎖劇などの演劇から、「活動写真」にも進出し浅草随一の興行師にのし上がった。以降、同劇場を中心に六区は、安来節に浅草オペラに軽演劇に活動写真にと隆盛を極める。 1912年(明治45年)、死去。85歳没。「根岸興行部」の経営は女婿の小泉丑治が継いだ。 のちに満映理事などをつとめた根岸寛一(旧姓・立花)は小泉の甥であり、のちの女婿である。寛一は青年時代(1918年ごろ)、浜吉および小泉と同郷の小田村から上京し、読売新聞記者を経て根岸興行部で働いている。また「浅草学」で知られる明治大学文学部教授井戸田総一郎は浜吉の曾孫にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「根岸浜吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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