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桂マサ子(かつら まさこ、1913年 - 1995年)は、日本出身でアメリカで活躍したビリヤード選手。ニックネームは「カツィ」。「ビリヤード界のファーストレディ」とも呼ばれた。1950年代に流行したキャロム・ビリヤードを得意とした。桂は、当時極度の男性社会であったプロビリヤード界に女性が進出する先駆けとなった。最初の師匠は一番上の姉の夫で、次いで日本チャンピオンの松山金嶺が師匠になった。松山の指導の下、桂は日本でただ一人の女性プロビリヤードプレーヤーになった。日本では、スリークッション制のビリヤード大会で2位を3回取った。 1950年に在日米軍の陸軍士官と結婚し、1951年に夫と共に渡米、1952年の世界スリークッションチャンピオンシップに特別出場し、10人中7位となった。桂は世界トーナメントに出場した初の女性となった。これで有名となり、世界チャンピオン8回のコクラン、世界チャンピオン51回のホッペとの米国エキシビジョンツアーを行っている。1953年の世界スリークッションチャンピオンシップでは5位、1954年には4位となった。 その後、たまたまアメリカでスリークッションの人気が低迷してしまい、桂はしばらく試合に姿を見せなかった。1958年にはハロルド・ワーストとのエキシビジョンマッチを30回おこなったが、トーナメントには出場していない。1959年には、ABCの『』、CBSの『』という2つの番組でテレビ出演している。1961年には世界スリークッションチャンピオンを賭けてハロルド・ワーストと対戦するが、敗れている。その後は、ビリヤード本の著者ロバート・バーンが1976年のちょっとしたエピソードを披露している他には、記録がない。1990年に日本に戻り、1995年に死去。 ==生涯と戦歴== ===若き日=== 桂の幼年時代のことは詳しくは分かっていない。桂家は4人姉妹で、マサ子は次女だった〔『Cue's』,vol.76, 2005年12月, p.25〕。12歳の時に父が亡くなり、桂は結婚していた姉夫婦と暮らし始めた。姉の夫コバシ・トミオはビリヤードパーラーを経営しており〔、桂は13歳まで義兄のビリヤードパーラーで遊んでおり、14歳から係員として働き始めた。義兄は優れたプレーヤーでもあり、桂に各種目の基礎を教えた。桂がビリヤードに熱中したため、家族は桂のために自宅にもビリヤード台を用意した。桂は熱心に練習し、すぐに日本の男性と張り合えるだけの腕を付けた〔。15歳の時、日本でトーナメントで優勝した。後のインタビューで桂は、その後プロに転向し、日本、中国、台湾へ遠征を始めた、と語っている〔。マサ子の2人の妹、典子とタダコも、別の年の女子ストレート・レールトーナメントで優勝している〔 (Date of world championship provided here (1951 rather than 1952) is incorrect per hundreds of newspaper articles)、和訳『ロバート・バーンのビリヤードアドバンスブック』, 2000年, BABジャパン, ISBN 4-89422-391-0〕。 1937年(昭和12年)、桂は全日本スリークッション選手権で数回優勝経験があるプレーヤー、松山金嶺と出合った〔。松山は1934年(昭和9年)のアメリカチャンピオンである。松山は桂のプレーに感動して、トップレベルの技術を伝授し〔、桂は第4回全日本スリークッション選手権(1941年)では松山金嶺に次いで準優勝した〔『撞球上達法』〕。1947年の時点で、桂は日本で唯一の女性プロビリヤード選手だった。その年、桂はアメリカ軍人のヴァーノン・グリーンリーフ(Vernon Greenleaf)の目に留まった〔。グリーンリーフの軍歴は22年で、アメリカ陸軍需品科に所属していた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桂マサ子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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