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桑原 武夫(くわばら たけお、1904年(明治37年)5月10日 - 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本のフランス文学・文化の研究者。文化勲章受章。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。 == 来歴・人物 == 福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(のち敦賀市)の出身。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産の地なので実質的には京都生まれだが、本人が敦賀に愛着を持ちこの経歴を称し続けた。 京都一中、三高を経て、1928年(昭和3年)、京都帝国大学文学部卒業。旧制大阪高校教授兼京都大学文学部講師を経て1943年(昭和18年)、東北帝国大学法文学部助教授。1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所教授、1959年(昭和34年)同所長、1968年(昭和43年)定年退官、名誉教授。 スタンダールやアランの研究により、フランスの文学や評論を広く日本に紹介した。父・隲蔵の関係もあり、早くから西田幾多郎や内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に直接接することが多く、戦後は同年代の吉川幸次郎や貝塚茂樹などの戦後の京都学派の中心的存在として、戦後のさまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。 フランス文学にとどまらず、多方面に亘る深い学識と行動力は各方面に及び、俳句を論じた「第二芸術」(『世界』1946年)は論議を呼んだ。 また、京大人文研を根拠地として、学際的な、さまざまの分野の研究者を組織することにより、先駆的な共同研究システムを推進したことでも知られる。『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など、日本の人文科学分野の研究において、数々の業績を残した。これらの共同研究を通じて、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。 時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント(好事家、学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、アイヴァー・リチャーズが『実践批評』で用いた手法をそのまま転用したものであることが外山滋比古によって指摘されている。このことを指していったのではないだろうが、小松左京は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつきいうてみい』と切り返した」と回想している。 岩波書店や中央公論社等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』『日本の名著』など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に朝日新聞社と岩波書店からそれぞれ全集が発刊されている。 また、同期である今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には、京都大学学士山岳会の隊長として、パキスタン領のチョゴリザ山への登頂を成功に導いた。登山に関する著書も多い。 1984年(昭和59年)から世界平和アピール七人委員会の委員も務めた。1966年(昭和41年)フランス共和国国家勲功騎士章。1974年(昭和49年)勲二等瑞宝章。1975年(昭和50年)朝日文化賞。1977年(昭和52年)日本芸術院会員。1979年(昭和54年)文化功労者顕彰。1987年(昭和62年)文化勲章受章。1988年(昭和63年)春に病没し、贈従三位、贈勲一等瑞宝章。 1998年(平成10年)から2012年(平成24年)まで、人文科学系の優秀な書籍を対象に桑原武夫学芸賞が授与されている。 郷里敦賀市の市立図書館の館内には桑原の胸像が建てられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「桑原武夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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