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梶田 繁政(かじた しげまさ、? - 1628年(寛永5年7月2日))は、戦国武将。美濃国加治田村出身(加茂郡富加町)。通称、新助。官位は出雲守。俗名、梶田出雲守源繁政。位は前雲州勲庵宗功禅門。初め加治田繁政とも。父は、梶田直繁(加治田直繁)〔「梶田氏の系図」〕。 == 概略 == 父と共に秀吉に仕え、後に福島正則の家老となる。繁政は織田秀信の岐阜城を攻めたときに、敵5人と渡り合って2人を討ち取り、1人に手傷を負わせて、なおも残りの2人を手捕りにしようと戦っていたが敵の勢いに息も続かず辟易して一時退却した。 関ヶ原本戦にて蜂須賀や、可児吉長と共に雌雄を争ひ、大谷吉継の陣へ攻め入大功をあらわし、宇喜多秀家の陣へ突入、十字無盡に働いて大将株の首級を三つ取った。徳川家康の本陣へ持ち帰り、首実験を行った。 家康より、「大将首三級を得たるは大きな働きなりとて、御感賞なし下され御感の余り、其功を子孫に残し示す為、首を三級盆にのせ、此を家紋として、長く伝へよ」と言われ、難有破格の御意を賜り、面目を施した。その時に、加治田を改め梶田とした〔「石田軍記」〕。 関ヶ原の戦い後、福島正則に仕え、備後三原城の守りにつく。慶長8年4月14日付の奉行宛の免請状によると貢租徴収者として「御代官梶田新介」の名が見える。「三原かけ持」という任務で尾関右衛門太郎・松田下総・上月豊後・間島美作らとの連帯責任で備後地方の民政の統括にあたった〔「広島県史」〕。 その後、福島が改易されたのち、春日井の下市場に帰り、隠居した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶田繁政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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