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森下 広一(もりした こういち、1967年9月5日 - )は鳥取県八頭郡八頭町出身の陸上競技者。1992年のバルセロナオリンピック男子マラソン銀メダリスト。鳥取県立八頭高等学校出身、現役時は旭化成陸上部所属。 == 来歴 == 船岡町立船岡中学校時代は水泳部に所属しながら駅伝に参加し、3年次には中学駅伝鳥取県大会の区間賞(6区)を獲得している。八頭高等学校に進学後、陸上競技部に入部して頭角を現す。3年次にはインターハイ予選中国地区大会の3000mSCにおいて由良育英高等学校の岡田敦行とともに高校生として初めて9分を突破、地元開催であったわかとり国体では、少年A1500m1500mで8位、少年A10000mで6位と気を吐く。 しかしながら、深山晃、岡田敦行ら、兵庫県からの越境入学による国体強化選手を集めた由良育英の壁に阻まれ、都大路への出場は一度も叶わないままの卒業となる。 高校卒業後、一旦は地元である船岡町での就職を予定していたが、誘いを受けて旭化成陸上部に入部する。 旭化成入社後、故障に苦しめられた時期も長かったが、宗茂・宗猛の指導の下、駅伝でチームの核となる活躍を見せ始める。1990年の熊日30kmロードレースで優勝を飾ると、トラックでは同年の北京アジア競技大会10000mで優勝して金メダル、5000mは銀メダルを獲得。翌1991年、世界陸上東京大会では10000m決勝進出を果たすなど、若手トップランナーとして注目を集め始める。 初マラソンは、1991年の別府大分毎日マラソン。初マラソンながら、急遽出場したソウルオリンピック・マラソン4位入賞である中山竹通との一騎打ちを演じた。このレースの39キロ過ぎ、中山が森下の肩を叩いてスパートを促すと、森下はそのまま中山を振り切ってゴールし、2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録で優勝した。 翌年の東京国際マラソンで、再び、中山と一騎打ちになり、トラック勝負でこれを制し、バルセロナオリンピックのマラソン代表となった。オリンピックまでのマラソン経験数2回は、戦後の日本の男子マラソン代表では最も少ない数字である。 8月のオリンピック本番では、旭化成のチームメイトだった谷口浩美や前述の中山とともに出場。黄永祚()とのマッチレースとなり、終盤のモンジュイックの丘で突き放されて惜しくも優勝を逃したが、日本人選手として2つめの銀メダルを獲得(ほか中山が4位、谷口が8位で日本3選手全員が入賞を果たす)。五輪マラソンで男子がメダルを獲得したのは、1968年メキシコオリンピックでの君原健二の銀以来24年ぶりのことであった。 五輪以降は怪我等で低迷し、現役を退き、1999年、トヨタ自動車九州陸上部監督に就任した。チームは着実に力をつけ、全日本実業団駅伝への出場、クロスカントリーやハーフマラソンの世界大会代表を出すまでとなった。 2005年には北海道・深川にて10000mの日本歴代3位・国内日本人最高タイムを記録した三津谷祐をヘルシンキ世界選手権代表へ。これがチーム初のトラック種目代表である。 また、深川のレースで三津谷をアシストしたルーキー、サムエル・ワンジル()はゴールデンリーグと呼ばれる国際主要大会の10000mで世界ランク上位に相当する26分41秒75をマーク。約2週間後に行われた9月のロッテルダムのレースではハーフマラソンの世界記録(59分16秒)を樹立した。ワンジルは2008年7月にトヨタ自動車九州を退社したが、その翌月の北京オリンピック男子マラソンで金メダルを獲得した。しかし故郷・ケニアに帰ったワンジルはその後数々のトラブルに巻き込まれ、2012年ロンドンオリンピックの開催される前年の2011年5月、ケニアの自宅バルコニーから転落して事故死、24歳の若さで夭折してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森下広一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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