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森 電三(もり でんぞう、1881年(明治14年)3月15日 - 1945年 (昭和20年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。阿波丸事件により死亡した。 ==経歴== 元旗本で東京外国語学校ロシア語科第一期生の学者・黒野義文の二男に生まれる。1886年(明治19年)、5歳の時に父・義文がロシアに渡った後、黒野家の御用人として親密にあった森家を継ぐ。 1895年(明治28年)、黒野家と旧旗本同士で親しかった山内作左衛門の庇護下に海軍兵学校へ進み、第28期の9番で卒業。 海軍大学校では第8期の首席で、明治天皇から恩賜の銀時計をいただいた。海軍兵学校卒業後、ロシアから帰国した広瀬武夫中佐の格別の知遇を得た。広瀬はロシア駐在中にペテルブルグ大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれ、電三の相談にのり世話をしていた。1905年(明治38年)に大尉となり、日本海軍最初の水雷母艦「豊橋」の分隊長となる。 1906年(明治39年)に日本が初めて持った潜水艇六号の艇長となる。副長を務めたのは佐久間勉だった。海軍大学校を卒業して少佐に昇進、軍令部参謀になる。1912年(明治45年)の明治天皇大葬の時は、 アメリカ合衆国の特派使節フィランダー・ノックス国務長官を乗せた「メリーランド」艦長エリコット大佐の海軍接伴員を命ぜざれた。 1913年(大正2年)、メキシコに派遣される。この頃のメキシコは内戦状態だったが約二千人の在留邦人がいて、生命や財産の保護が問題となっていた。1915年(大正4年)には在アメリカ合衆国日本国大使館付海軍武官となりワシントンD.C.勤務、その間にペンシルヴァニア大学法学部で国際法を学ぶ。 1919年(大正8年)から約2年、海軍大学校で教鞭を取り、作戦や海軍史を講義する。ちなみに、電三の生家である黒野家は武田氏家臣、徳川家旗本の時代を通じて兵学一家として知られていた。 1922年(大正11年)「木曾」艦長に就任、台湾海峡で ゲオルギー・スタルク提督率いる、バイカル号などのロシア船団が遭難した時に、飯田久恒司令官と連携しロシア人を救助する。 1923年(大正13年)横須賀鎮守府に転勤、海軍少将に進む。退官後、東京帝国大学法学部の聴講生として3年間学び、徳川慶喜の孫・ 徳川慶光公爵の補導役となる。 1943年(昭和18年)、退役していた電三は海軍大学校の教え子の要請を受け、海軍の嘱託としてシンガポールに赴任。1945年(昭和20年)4月1日、日本に引き揚げるためシンガポールから乗った阿波丸が台湾海峡でチャールズ・E・ラフリン中佐が指揮する米潜水艦「クイーンフィッシュ」の放った四発の魚雷を受け沈没(阿波丸事件)、生涯を終える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森電三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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