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楽 進(がく しん、? - 218年)は、中国後漢末期の武将。字は文謙。兗州陽平郡衛国の人。子は楽綝。孫は楽肇。『三国志』魏志に伝がある。 == 生涯 == ===一番乗りの勇将=== 身体は小柄だが、性格が剛毅果断だったという。曹操が董卓に反抗して挙兵すると、楽進は曹操の下へ馳せ参じた。曹操は当初、楽進を武将ではなく帳下の吏(記録係)として用いていた。あるとき楽進を出身郡へ帰らせて兵を集めさせたところ、楽進は1000もの兵を引き連れ帰還してきたという。これにより曹操は楽進を武将として起用することにし、軍の仮司馬・陥陣都尉に任命した。 濮陽での呂布・雍丘での張超・苦での橋蕤(袁術軍の部将)との戦いでは、何れも一番乗りとしての戦功を立て、広昌亭侯に封ぜられた。安衆での張繍戦・下邳の呂布包囲戦では別将を破った。射犬での眭固攻撃・沛での劉備攻撃にも従軍し、全てを討ち破って討寇校尉に任ぜられた。 官渡の戦いでは黄河を渡り、于禁と共に歩・騎兵5000を率いて獲嘉にある袁紹側の陣営を攻撃した(「于禁伝」)。また官渡においても勇戦し、淳于瓊を斬った〔建安5年(200年)冬10月、曹操が淳于瓊を強襲したときの戦い。〕。 袁紹の没後、袁譚・袁尚兄弟との戦いにも従軍し、黎陽では袁尚軍の大将厳敬を斬り、これにより行遊撃将軍に任ぜられた。さらに別働隊を率い楽安の黄巾賊を打ち破った。黎陽から逃走した袁兄弟を鄴城に追い詰めた後、一時曹操が許都に帰還したが(「袁紹伝附袁譚伝」)、楽進は張遼とともに陰安を落とし住民を河南に移した(「張遼伝」)。その後、鄴城包囲の軍に従軍し、鄴城が陥落すると南皮の袁譚を攻め、東門へ一番乗りとして突入した。袁譚撃破後には、別働隊を率いて雍奴を攻撃し打ち破った。 建安11年(206年)、曹操が朝廷に楽進・于禁・張遼の栄誉を称えてこれを上奏したため、楽進は折衝将軍に任命された。 また烏桓征討中に反逆した高幹を攻めた際には、別働隊を率いて北道から上党郡に入り、道を迂回して高幹の背後に出た。高幹がこれを受けて壺関に引き揚げたが、楽進はこれを攻めて打ち破った。その後、高幹が壺関に引き籠って堅守したため陥落させることができなかったが、曹操自身が征討することになると、ようやく陥落させることができた。その後、曹操が淳于に布陣するよう命令を出すと、李典と共に海賊の管承を攻撃した。管承が敗れて海島に逃げ込んだため、海岸付近は平定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楽進」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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