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樋口 兼豊(ひぐち かねとよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上田長尾家のちに上杉氏の家臣。 == 生涯 == 樋口兼村の子として誕生。樋口氏は、源義仲の家臣である樋口兼光の子孫と云われる。 はじめ、上田長尾家当主・長尾政景に仕えた(おそらく家老かそれに順ずる格〔米沢藩の記録書「古代士籍」や「上田士籍」ではそれぞれ長尾政景家老、上田執事との記載あり。「藩翰譜」では練炭吏(薪炭用人)としているが、「藩翰譜」が書かれた時期の米沢藩は直江家に対して否定的な考えが支配しており、信憑性は低い。〕)。政景の死後は、その子で越後国の大名・上杉謙信の養子となる長尾顕景(後の上杉景勝)に仕える。謙信死後に起きた上杉氏の家督争いである御館の乱では景勝方として武功をあげ、天正9年(1581年)に荒戸城将となり、100石を加増されて天正年間に直峰城(現新潟県上越市安塚)主に任じられた。 その後、主家の会津転封に従い、子の直江兼続が城主となった米沢城に入るが、城主の兼続が主君・上杉景勝の主席家老(執政)として、常に主君と共に会津若松城か京都・大坂に出仕していてほとんど城主不在だったため、その間は事実上の城代(留守役)を勤め、最上氏の動向調査報告などの活動を行っている。 慶長7年(1602年)、死去。戒名は、台代翁道高庵。樋口家は三男の秀兼が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樋口兼豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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