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正村 竹一(まさむら たけいち、1906年9月5日 - 1975年10月18日)は日本の実業家。パチンコの正村ゲージの考案者。パチンコの父・パチンコの神様・現代パチンコの生みの親と称される。 == 略歴 == === 生い立ち === * 1906年(明治39年)9月5日 - 岐阜県稲葉郡茜部村(現在の岐阜市)に、小作人 鐵次郎とこう夫妻の九人兄弟の三男として生まれた。 * 1912年(明治45年) - 茜部尋常小学校に入学。 * 1915年(大正4年)頃 - 初めて奉公に出された。 * 1916年(大正5年)頃 - 指物職人の長崎五三郎に奉公。 * 1919年(大正8年) - 奉公を終え、実家のある茜部に戻った。 * 1923年(大正12年) - 笠松の高木酒問屋に奉公に出、持ち前の器用さを生かして自動ビン洗い機などを開発した。 * 1926年(大正15年) - 高木酒店における奉公を終える。また、独立するまで、長崎のもとで指物職人として働く。 * 1927年(昭和2年) - 名古屋市西区江川横町四四番地にガラス商として「正村竹一商店」を開業した。 * 1928年(昭和3年)10月23日 - 岐阜県竹鼻の機屋経営の岩田平次郎の長女、岩田千代子と結婚。当時、あまりの忙しさに式を商店の2階で行なった。 * 1933年(昭和8年)4月29日 - 長女久子が誕生。アイスキャンディー店をはじめた。 * 1934年(昭和9年)12月4日 - 武雄誕生するも、生後5日で亡くす。 * 1936年(昭和11年)1月10日 - 長男竹次が誕生。 * 秋頃 - 名古屋市弁天通りにパチンコ店「スピード野球ボール」を開店した。 * この年から5年の間に、西春日井郡庄内町大字稲生1103番地に2棟の貸家、三股(現西区城西五丁目付近)および自身のパチンコ店の東側にアイスキャンディー店を開業。 * 1937年(昭和12年)1月21日 - 次女光子が誕生。 * 1938年(昭和13年)12月30日 - 西区堀越町字藤田町三丁目16・17番地に貸家を開業。 * 1940年(昭和15年) - パチンコ店の営業及びパチンコ台の製造が当局により禁止された。堀越町字江向町に一棟貸家を開業。 * 1941年(昭和16年) - 三女陽代が生まれる。西区大道町一丁目・中村区則武町西廻りに一棟ずつ貸家を開業。 * 1942年(昭和17年)9月8日 - 次女光子を亡くす。 * 1943年(昭和18年) - 四女勝子が生まれるが、3か月で亡くす。 * 1943年(昭和18年)8月 - 愛知航空機(現愛知機械工業)船方工場に徴用される。 * 1944年(昭和19年)3月 - 昭和19年度所得申告書によればガラス商としては廃業し、扇子製造に乗り出す。 * 1945年(昭和20年)4月24日 - 次男勝一生まれる。 * 1945年(昭和20年)6月9日 - 勤務先の軍需工場であった愛知航空機で熱田空襲に遭い、右半身の腕から足先にかけて30数発の弾片が突き刺さり、4-5発が腕を貫通する大怪我をするが生還。 * 1946年(昭和21年)5月30日 - 西区江川横町一丁目44番地において「浄心遊技場」としてパチンコ店を再開。「西税務所管内パチンコ営業者一覧表」によれば、従業員はなく、家族7人、20台での営業とある。 * 1948年(昭和23年) - パチンコ機の試作を開始し、正村ゲージを完成させる。 * 1949年(昭和24年) - パチンコ機「オール10」の開発に着手。この頃に正村ゲージを配したパチンコ機の販売を開始し、毎朝店の前に買い手が300mの行列を作る大ヒットとなった。 * 1951年(昭和26年) - 株式会社正村商会を設立。ピーク時に月産約2万台を記録。遊技機1台7000円程だったが、年商は当時10億円を超えたという。 * 1952年(昭和27年)10月21日 - 隠匿物資の摘発という名目で自宅が家宅捜索を受け、50本の金の延べ棒を押収された。 * 1953年(昭和28年) - 1952年に押収された金の延べ棒が1本2000円の公定価格で政府に買い取られた。ヤミの価格では1本100万円、1989年時点での価格では5億円程度になったという。 * 1954年(昭和29年) - 連発式パチンコが当局の規制を受け、パチンコ業全体が衰退する。 * 1966年(昭和41年) - パチンコ製造の直営工場を閉鎖し、事実上のパチンコ業撤退。 * 1967年(昭和42年) - ガソリンスタンド経営に着手した。 * 1973年(昭和48年) - 肺がんを宣告された。 * 1975年(昭和50年)10月18日 - 肺がんにより死去。享年69。 正村ゲージが爆発的にヒットし、現在のパチンコ産業の基礎を築いた人物の一人と称えられる。現在のパチンコ台の釘構成も、正村ゲージが原型となるほど影響力がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正村竹一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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