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正親町 実明(おおぎまち さねあきら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公守の次男。左大臣洞院実泰の異母弟。羽林家に属する正親町家の始祖。正二位権大納言。 == 経歴 == 藤原北家閑院流洞院家の出身。正親町、又は裏辻を号し、正親町家の祖となった。 建治3年(1277年)正月、従五位下に叙爵し、弘安2年(1279年)従五位上、弘安3年(1280年)に侍従に任ぜられる。弘安6年(1283年)には正五位下、続いて従四位下に叙せられた。 弘安7年(1284年)左近衛少将に任官。弘安8年(1285年)従四位上に叙せられ、弘安9年(1286年)4月に春宮権亮を兼ねる。同年11月1日、権亮を辞任し、11日に右近衛中将に転じた。弘安10年(1287年)には播磨権介を兼帯し、正応2年(1289年)に正四位下に進み禁色を聴される。正応4年(1291年)従三位に叙せられて公卿に列した。 正応6年(1293年)正三位に叙せられ、永仁4年(1296年)参議に任ぜられる。永仁5年(1297年)権中納言に進み、永仁6年(1298年)に従二位、永仁7年(1299年)には正二位に叙せられ、乾元元年(1302年)11月に権大納言に至った。しかし、乾元2年(1303年)8月、権大納言を辞任し、散位となる。元応2年(1320年)本座を聴され、元亨2年(1322年)に出家した。長年出家の願望があったという〔『花園天皇宸記』元亨2年2月17日条。〕。 建武の新政崩壊後は北朝に属し、観応の擾乱の最中である観応2年(1351年)正月17日の夜、78歳という高齢で薨去した。甥の洞院公賢は「随分寿考の人なり」とその長命を評している〔『園太暦』観応2年正月18日条。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正親町実明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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