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正親町 実徳(おおぎまち さねあつ、1814年11月10日(文化11年9月29日)- 1896年(明治29年)10月31日〔『明治維新人名辞典』180頁。〕)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。通称・亀久麿〔。 ==経歴== 山城国京都で権大納言・正親町実光の三男として生まれる〔。兄・公道の死去に伴い、文政元年6月13日(1818年7月15日)家督を継承〔。文政7年12月16日(1825年2月3日)に元服し昇殿を許された〔『公家事典』233頁。〕。左近衛権少将、右近衛権中将、参議、権中納言などを歴任し、安政6年4月3日(1859年5月5日)権大納言に任じられた〔。 安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・中院通富・橋本実麗・野宮定功・八条隆祐と共に、案文の変更を求めた〔東京大学史料編纂所ホームページ「維新史料綱要データベース」。〕。元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止、他人面会・他行の禁止を命ぜられ、慶応3年1月(1867年)に赦免された〔。 王政復古後、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に就任〔『百官履歴 下巻』495頁。〕。その後、兼皇太后宮大夫、大宮祗候などを歴任し、明治2年7月27日(1869年9月3日)から明治3年12月12日(1871年2月1日)まで皇太后宮大夫を務めた〔。 1882年11月8日に隠居し、長男・実正が家督を継いだ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正親町実徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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