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武亭[む じょん]
武 亭(ム・ジョン、1904年〔1904년생 설이 있다. 〕 - 1952年10月〔1951년 사망설이 있다. 〕)は北朝鮮の軍人・政治家である。本名は金武亭(キム・ムジョン/)。中国共産党から高く評価され、「革命指導者」と呼ばれた唯一の朝鮮人であった。北朝鮮初期の指導部を構成した諸派閥のうち、延安派の中心人物の一人。 == 経歴 == 大韓帝国咸鏡北道鏡城郡出身。京城(ソウル)で育ち1919年3月の三・一運動に参加した。中央高等普通学校(Seoul Central High School)に入学したが、退学して1923年3月に中国に渡った。1924年に河北省の保定陸軍軍官学校砲兵科を卒業して砲兵将校となり、閻錫山の軍閥に参加した。朝鮮人革命家の呂運亨の影響で1925年に北京で中国共産党に入党。北伐、広州蜂起に参加。1930年に彭徳懐の部隊に入隊する。紅軍第3軍団砲兵将校として中国共産党の革命拠点だった江西省瑞金で国民党軍と戦い、1931年の中華ソビエト共和国樹立に参加。同年、中央軍委砲兵団団長。1933年、紅軍特科学校校長。1934年に中国共産党が瑞金を放棄し延安に本拠地を移した長征では中央軍委第1縦隊第3梯隊隊長兼政治委員に就任。黎平会議後に部隊は改編され紅軍第3軍団砲兵営営長。この長征で参加した朝鮮人10数名のなかで唯一の生き残り〔では「2人しか生き残らなかった朝鮮人のうち1人」とも〕となり、頭角を現した〔Daum 백과사전, 무정 〕。長征完了後は紅軍大学に入学。 八路軍内では砲術の専門家として高く評価され、1937年、八路軍総司令部作戦課長。同年末、八路軍総司令部砲兵団団長。 日中戦争中の1941年には中国山西省で華北朝鮮青年連合会を結成。1943年に、のちに延安派の基盤になる朝鮮義勇軍司令官となったほか、華北朝鮮独立同盟結成時からの常任委員として活躍した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武亭」の詳細全文を読む
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