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武川 壽輔(むがわ じゅすけ〔『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』〕、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、赤穂中学の初代校長。 ==略歴== 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第二十七連隊の中隊長として日露戦争に出征〔『武川先生の教育と思い出』「武川先生年譜」〕。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第五十七連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。部下に秩父宮雍仁親王がいた。第20師団参謀長を経て1923年(大正12年)8月6日少将へ昇進するとともに歩兵第39旅団長となり、翌年予備役編入となる。 その後安積中学の同級生であった小西重直らの推薦を受け、赤穂中学校長に就任した。武川は赤穂藩に流刑された山鹿素行と同郷という縁があり、赤穂義士会会長を務めている。赤穂城内には武川の頌徳碑が建立され〔赤穂市教育委員会 〕、没後50年に際し『武川先生の教育と思い出』が出版された。"やれば出来る。我に力あり"が口癖であった〔赤穂民報 2010年8月30日付 〕。稚松会会員〔財団法人稚松会名簿〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武川寿輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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