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武田 作十郎(たけだ さくじゅうろう、1913年12月29日 - 1993年3月14日〔)は、日本の競馬騎手、調教師。 1932年、京都競馬倶楽部(のち日本競馬会→国営競馬→日本中央競馬会)において騎手デビュー。太平洋戦争を経て1963年まで騎乗した。同年より調教師に転身。1982年の最優秀3歳牡馬・ダイゼンキングなど5頭の重賞勝利馬を手がけた。また、弟子に関西初の2000勝騎手である河内洋、中央競馬史上の最多勝利記録を樹立した武豊がいる。1992年に定年引退。 == 経歴 == 北海道留萌郡留萌町出身〔『騎手銘鑑』p.35〕。農業を営んでいた実家では数頭の農耕馬を飼っており、馬に親しみながら育つ〔『調教師の本III』pp.40-56〕。やがて騎手を志し、尋常小学校卒業後に静内町の本間牧場に就職。ここで馬の扱いや馬術の手ほどきを受け、1930年より京都競馬場の美馬信次厩舎で騎手見習いとなった〔。 1932年に騎手免許を取得〔『調教師の本III』pp.63-64〕。同年4月24日に京都開催で初勝利を挙げた〔。1937年、東京競馬場の藤本冨良厩舎へ移籍し〔、同年秋にはヒサニシキで農林省賞典牝馬を制した〔『日本競馬史・第3巻』p.568〕。1943年から1945年までは兵役に就き、1947年秋より騎手として復帰〔。1953年には大久保亀治厩舎への移籍のため京都へ戻る〔。1955年に松田由太郎厩舎へ移り、翌1956年には自己最高の年間27勝を挙げた〔。のち低迷に向かっていったが、加藤清一から「もう一度男になれ」と声をかけられたことで奮起し、以後加藤厩舎所属騎手として50歳まで騎手を続けた〔。1963年に調教師免許を取得し、騎手を引退。通算成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で、702戦60勝〔。武田自身は「乗り役としての僕は、100点満点で50点ぐらいだった。闘志では仲間内でも負けなかったけれど、決して巧いジョッキーじゃなかった」と述べているが〔、1956年発行『騎手銘鑑』によれば、騎乗フォームの美しさには定評があったという〔。また調教師となったあとのことであるが、河内によれば武田は、癖馬を乗りこなすことに長けていたともいう〔。 厩舎開業2年目の1964年に38勝を挙げ、関西8位(全国13位)に入ると、1964年には49勝で関西4位(全国5位)とさらに成績を上げ、関西の優秀調教師賞を初受賞〔。以後も成績上位を続けた〔。1969年、管理馬アトラスが小倉記念を制し、調教師として重賞初勝利を挙げる〔。 1970年、河内洋が騎手候補生として入門し、その翌年には戸山為夫厩舎から武邦彦が武田厩舎に籍を移す〔。名騎手であった邦彦に間近で接し、デビュー後は武田からの後援も受けた〔河内(2003)pp.140-142〕河内は、初年度から26勝を挙げて関西新人賞を獲得し、以後関西のトップ騎手として頭角を現していった。 1982年、中村好夫厩舎からの移籍馬・ダイゼンキングで関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスを制する〔。同馬はこの年の最優秀3歳牡馬に選出された。1986年、河内がフリーとなり厩舎を離れたが、その翌年には競馬学校を卒業した武邦彦の子・武豊が新たに所属騎手となった〔。豊はこの年新人騎手として史上最多の69勝を挙げ、最多勝利新人賞を受賞〔。また当年は武田も関西10位の25勝を挙げ、自身4度目にして最後の優秀調教師賞を受賞した〔。 1992年2月、定年により調教師を引退〔。調教師としての通算成績は7986戦738勝(繋駕速歩競走を除く)〔。翌1993年3月14日、肝臓癌のため79歳で死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武田作十郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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