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武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる〔『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。〕。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。 江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透した。「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれたともされる。ただし、これらの人物像には創作も多いとされる。 兜は、諏訪法性兜。 == 生涯 == === 出生から甲斐守護継承まで === 甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。 甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥〔「武田信昌」『日本人名大辞典』講談社。〕、国衆勢力を服従させ国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団組織が整備され戦国大名としての地位が確立されていた。 信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという〔福島勢の侵攻・信玄出生に関しては「高白斎記」「王代記」ともに『山梨県史』資料編資料編6中世3上(県内記録)など〕。幼名は太郎〔信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『甲陽軍鑑』によればこのときの勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、『甲陽軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曾我時致が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。〕。兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。 大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代(太郎)を徐々に疎むようになったと言う。傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。 信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。 天文2年(1533年)に扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であるが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去している〔。 天文5年(1536年)に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める〔『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の通字)〕官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。 信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。 晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する〔信虎追放に関しては『勝山記』や塩山向岳禅庵小年代記など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因としていることから、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武田信玄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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