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武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日(慶応3年4月24日)- 1932年(昭和7年)5月26日〔『日本人名大辞典』1138-1139頁。〕)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者として知られる〔。 == 経歴 == 柳河藩士・武田道夫の二男〔『日本近現代人物履歴事典』311頁。〕として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業〔。 1889年8月、法制局雇となる〔。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊〔。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる〔。同年12月、法制局試補となり、さらに法制局参事官を務める〔。1893年4月、内務省に転じ広島県参事官に就任〔。以後、長野県警部長、群馬県書記官、兵庫県書記官などを歴任〔。 1899年4月、秋田県知事に就任〔『新編日本の歴代知事』167頁。〕。1902年2月、山口県知事に転じた〔『新編日本の歴代知事』853頁。〕。友人の佐野友三郎を県立山口図書館長として招聘したことでも知られている〔。1903年6月に山口県知事を休職〔。1905年9月、山梨県知事となる〔『新編日本の歴代知事』497頁。〕。 1906年(明治39年)には山梨県甲府市で一府九県連合共進会が開催され、大塚蒼湖・鈴木尚重らに山梨県内の名勝18ヶ所を描かせた木版画集『甲山峡水』を刊行させる〔平林彰「山梨ゆかりの近代日本画と昇仙峡の絵画」『山梨に眠る秘蔵の日本美術』(山梨県立美術館、2009年)p.14〕。 同知事としての在職中には明治40年の大水害が発生しており、武田は災害後に陣頭指揮を行い、後年にその様子を『明治四十年大水害実記』として記している〔『「米キタ」「アスヤル」ー明治四十年の大水害から百年ー』(山梨県立博物館、2007年)〕。 1908年6月、青森県知事に就任〔『新編日本の歴代知事』100頁。〕。1913年6月に休職となり、翌月に退官した。 1913年9月、神宮皇學館長(- 1918年4月)、大日本体育協会副会長(- 1922年3月)に就任〔。1918年4月、市立大阪高等商業学校長事務取扱に就任し、さらに同校長を務める。同校が旧制大阪商科大学・同高等商業部に改組されると、学長事務取扱として1928年6月まで在任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武田千代三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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