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武臣政権(ぶしんせいけん、(ムシンヂョングォン)、武人政権とも書く)は、朝鮮半島における高麗王朝の統治下、1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間にわたり、国王や文臣ではなく武臣が朝廷の政治を掌握していた時代、およびその政権形態を指す。この期間のことを「武人時代(ぶじんじだい、ムインシデ)」ともいう。 ==背景== ===高麗王朝の動揺=== 朝鮮史上、文班・武班の両班(ヤンバン)制度が始まるのは高麗時代からであるが、高麗では文治主義の伝統に基づき、武班官僚は文班官僚の下位におかれていた。958年から唐の制度を参考にして導入された科挙(官吏登用試験)においても、文科・雑科や僧侶を格付けする僧科が創設されたのみであり、武人を登用する武科は無く、武班職になるには世襲的な蔭叙による任命か、戦争の武功による抜擢のみであった。これらから「尚文軽武」すなわち武班に対する文班の高慢と蔑視という風潮を生み出していた〔姜2001、88-89頁。〕。武臣のトップである上将軍・大将軍をはじめ武臣は合議機関「重房(チュンバン)」を拠点に活動していたが、つねに差別的な待遇に甘んじてきた。すでに11世紀初頭の段階で、文臣に対する武臣の反撥が金訓の乱(1014年)という形で噴出している〔『朝鮮史』139頁。〕。 12世紀に入ると、朝鮮半島の北方にある満洲平原の主役は、契丹(遼)から女真(金)へ交替期にさしかかっていた。高麗王朝はこれに介入するため、軍制を改革して幾度か侵入を試みたが、いずれも女真の激しい攻撃を受けて敗退した〔『朝鮮史』136頁。〕。やがて靖康の変で宋が華南へ後退し、金が華北の支配者として確定すると、1128年高麗は金に入貢し、冊封を受けて関係改善を図った。しかしこの時期、1126年に王室の外戚李資謙(イ・ジャギョム)が王位を狙った李資謙の乱が勃発。1135年には風水地理説や陰陽秘術で人々を幻惑した僧侶の妙清(ミョヂョン)が、朝廷高官を籠絡して開京(開城)から西京(平壌)への遷都を画策し、後に妙清が大為国を称して独自年号を立てたことから、一年にわたり国家を南北に二分する争いとなった妙清の乱が発生し、王朝が動揺するとともに首都開京も荒廃した〔『朝鮮史』137-138頁。〕。結局、国王仁宗の命を受けて妙清の乱を鎮圧したのは、『三国史記』の編者としても知られる文臣の金富軾(キム・プシク)であり、国家非常時における兵権が文臣に握られていることにも武臣の不満は高まった。くわえて1146年から四半世紀にわたって王位にあった毅宗(ウィジョン)が豪奢・遊興にふけり、宦官の専横を許すなど、政治の弛緩も甚だしく、国内にさらなる不満が蓄積されていた。とくに毅宗が土木工事や仏教儀式の挙行に際して下級武臣(現職の武班)や軍人らを酷使した一方で、文臣・宦官を露骨に優遇したために、武臣らの不満は頂点に達していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武臣政権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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