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武蔵府中熊野神社古墳(むさしふちゅうくまのじんじゃこふん)は、東京都府中市にある上円下方墳である。2005年7月14日、国の史跡に指定された。 ==古墳発見と発掘の経緯== 武蔵府中熊野神社古墳はその名の通り、府中市にある熊野神社境内の本殿北側にある。神社の境内にある小山が古墳であるという説自体は以前から存在し、地元では関東大震災の時に墳丘の一部が崩壊するまで石室の中に入れたとの言い伝えがあり、穴に入ることが出来たことから神社の敷地内にある小山のことを洞穴(ほらあな)と呼んでいたが〔多摩地区所在古墳確認調査団(1995)p.21、深澤(2006)p.6〕、最近まで古墳であるかどうかの確証がつかめなかった。 なお、熊野神社はもともと府中市内の別の場所にあったものが、1777年(安永6年)に現在の地に移ってきたものと言い伝えられており〔深澤(2006)p.62によれば、17世紀半ば過ぎから18世紀にかけて熊野神社は現在の場所に移転してきたものと考えられ、古記録から1777年が有力ではないかとしている。〕、古墳と神社は直接的な関係はないものと見られている。 1990年(平成2年)、熊野神社の祭礼で用いられてきた山車が壊れたために新調することになった。そして山車の新調とともに、山車の収納庫も建て替える話が持ち上がった。結局山車の収納庫も神社内にあった小山の一部を削り、規模を拡大して建て替えることになった。ところが収納庫の新築に際し、府中市の教育委員会から遺跡の発掘調査の指示が出された。かつて武蔵国の国府が置かれていた府中市内には工事に際して発掘調査が義務付けられている地区があり、熊野神社も調査義務区域内だった。 調査の結果、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造されたことがわかった。また小山からは河原石が大量に見つかった。ただ、旧来知られていた高倉古墳群から離れていたことや、周辺には墳丘に版築工法を用いた古墳が見当たらなかったこと、更には近世の文献で古墳であると指摘したものがなかったことから、発掘後も古墳とはされなかった。 1994年(平成6年)、府中市は熊野神社の南東にある高倉古墳群の地中レーダー探査を計画した。その中で熊野神社裏手の小山も探査対象の一つに選ばれた。レーダー探査の結果、小山の頂上部分から南側にかけて、大きな構造物があることが確認され、古墳である可能性が高くなった。 その後、1884年(明治17年)8月21日に発行された『武蔵野叢誌』第19号という文献に、熊野神社裏手にある塚についての記述があることが発見され、1996年には『武蔵野叢誌』に記された熊野神社裏の古い塚についての論文が発表された。『武蔵野叢誌』には「熊野神社の裏手に古い塚が発見された。塚の入り口は大きな石や滑土(なめつち)で出来ている。中に入ると3つの部屋に分けられている。三室目は大きくて六畳敷くらいの大きさがあり、周囲や天井は全て、滑土を切石状に切り出したものをあたかも眼鏡橋状に組み上げている。中には2体の白骨があり、そばには錆びた釘のようなものが散乱している」などと、古墳の石室内を描写したものと思われる記述が残されていた。 2003年(平成15年)5月、熊野神社の小山の発掘が開始された。発掘後まもなく古墳であることが確認され、2003年の年末には三段築成の上円下方墳であることが確認された。翌2004年(平成16年)には石室内や周辺の発掘が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武蔵府中熊野神社古墳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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