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武藤 孝司(むとう たかし、1973年6月6日 - )は、神奈川県川崎市出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴 == 横浜商高、創価大学を経て1995年のドラフトで近鉄に3位指名され、入団。 高校時代は、1990年に夏の甲子園に出場し、2回戦の日大東北戦ではランニングホームランを放つなど、チームのベスト8進出に貢献した。 2年目の1997年、開幕8試合目からいきなり1番でスタメン出場するようになり、ショートのレギュラーとしても定着、大村直之がスタメンに入った後は2・9番併用、8月から再び1番に入る。入団当初「守備はいいがバッティングはいまひとつ」といわれていたにもかかわらず、規定打席に到達し、.282、26盗塁の好成績を残し、同期の岡本晃と共に新人王候補に挙がる活躍を見せた。 1998年は開幕戦の延長でサヨナラ安打を放ち、チームの3年連続開幕戦勝利に貢献、同時に自身初のお立ち台にもあがった。前半戦は1・2・9番を大村・水口・武藤で、7月ごろからは大村と共に俊足左打者の1・2番コンビを形成、共にオールスターゲームに出場するも、大村がシーズンを通して安定していた反面、武藤は前半戦.280前後をキープしていたが後半に不調になり、ベテランの吉田剛のスタメン出場が増え、結局.250に終わった。 1999年も大村と1・2番を打ったが、6月の初めに月間打率.125の不調や守備でのミスによるファーム行き、ケガの影響で規定打席到達はならなかった。2週間ほどファームでフォームの修正などを行い、7月は月間打率.314、8月は.323と絶好調になり、9月12日の対ダイエー戦(大阪ドーム)で、プロ初本塁打を放ち、「やっと出てくれてホッとしました。」とコメントしている(ちなみにこのときは2対1で近鉄が敗れている)。翌年の背番号変更で2000年のシーズンへの期待から6の背番号をもらう。この年私生活で結婚している。武藤が後半になって盛り返した反面、前年とは逆に今度は大村が不振になった。 2000年は自身初の開幕戦リードオフマン「1番・セカンド」で起用されたものの、4月は.245だった。打順も9番に下がりがちになったが、その後はほかの選手がシーズンを通してもしくはシーズン途中で失速して不振になる中、下位打線(基本は9番。6番の礒部公一が顔面死球で離脱し、的山哲也が入った期間以降は基本8番)で安定した打撃をみせ、例年のように夏ごろから上位打線での起用が多くなり、5月~10月の月間打率は3割を超えた。7月8日の対オリックス戦で、プロ入り2本目にして最後の本塁打をグリーンスタジアム神戸で、推定飛距離115mで右翼席中段に届く本塁打を放った(このときも4対3で敗れている)。これには武藤自身も「(試合前の)バッティング練習でもあんなに飛んだことはありません」と驚きのコメントを残した。8月に太ももの違和感による離脱で打席数が不足し、一時打撃ランキングから姿を消したものの、ぎりぎり規定打席に到達し、打撃成績ベスト10中7位の打率.311、20盗塁(打率、盗塁数ともにチーム内トップ)、得点圏打率.370を記録したほか、セカンドのベストナイン得票数が大島公一についで42票の第2位など自己最高の成績を残した。但し、8月の併殺プレーの際にランナーと交錯、右肩甲下筋を損傷してしまい、8月9日以降はショートではなくセカンドやDHとして出場し、8月8日を最後に引退まで本職である遊撃手での出場はなかった。当初、次のシーズンに間に合うか微妙だったため手術を迷っていたが、術後3ヶ月で完治し、開幕に間に合うと復帰の見通しが立った事、球団の勧めもあり、シーズンオフの11月に右肩を縫合手術した。 ところが、2001年は2月の下旬からティー練習を再開するも、当初のリハビリ計画で予定されていた3月ごろからのキャッチボールは到底できる状態ではなく、開幕どころか前半戦が絶望的となった。その後6月30日に2軍タイガース戦で復帰(初打席は遊ゴロ)、7月11日のカープ戦では復帰初スタメンで横松寿一からホームランを打つなど、順調な滑り出しを見せたが、一軍出場はなかった(7月の前半戦終了後に吉岡雄二とともに1軍に合流しているが、今度は足を怪我したようで、その後登録されたのは吉岡だけだった。) 2002年は5月8日に2年ぶりに1軍に昇格、14日に2年ぶりの安打を放ったが、6月8日には再び2軍落ちし、9月27日まで昇格はなかった。10月5日の日本ハム28回戦(東京ドーム)で9回にタイムリーヒットを放ち、これが1軍での最後の打点になった。結局5月、9月、10月に18試合、そのほとんどが代打としての出場で、スタメンは5月の3試合の出場にとどまった。ウェスタン・リーグで盗塁王を獲得している。 肩が完治した2003年も一軍出場はなく、当時機動力をもつ選手の不足に悩んでいた横浜とのトレード(門倉健、宇高伸次⇔福盛和男、矢野英司)の追加要員の可能性が出たが結局移籍せずシーズンオフには戦力外通告を受け、その後スカウトへの転身が発表された。 2004年は近鉄で、2005年はオリックス・バファローズで、2006年東北楽天ゴールデンイーグルスでスカウトを務めていたが、2012年11月30日退団が発表された。 2013年12月30日、プロ野球独立リーグ・四国アイランドリーグplusに所属する徳島インディゴソックスの守備走塁コーチに就任することが発表された。2015年12月3日に徳島のコーチ退任とサンディエゴ・パドレスの日本担当スカウト就任が発表された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武藤孝司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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