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『歴史の終わり』(れきしのおわり、)は、アメリカ合衆国の政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。1989年にナショナル・インタレストに発表した論文「歴史の終わり?」からさらに具体的に考察したものであり、1992年にFree Press社から出版された。原題は『歴史の終わりと最後の人間』であり、三笠書房の翻訳版のタイトルは『歴史の終わり』だが、『歴史の終焉』として言及されることも多い。翻訳は渡部昇一が行った。'')は、アメリカ合衆国の政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。1989年にナショナル・インタレストに発表した論文「歴史の終わり?」からさらに具体的に考察したものであり、1992年にFree Press社から出版された。原題は『歴史の終わりと最後の人間』であり、三笠書房の翻訳版のタイトルは『歴史の終わり』だが、『歴史の終焉』として言及されることも多い。翻訳は渡部昇一が行った。 == 概要 == ===「歴史の終わり」とは何か?=== 「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するような戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。そのため、この時代を「歴史の終わり」と呼ぶ。 もちろん、人類の滅亡による人類史の終わりを意味するのではない。ここで言う「歴史」とは、本質論的には、弁証法的なイデオロギー闘争の過程であり、現象論的には戦争やクーデターなどによる政治的存在(国家、王朝など)の興亡の変遷である。歴史とは、政治的存在が成立し、発展し、やがて崩壊する過程である。「剣を執る者は皆、剣によって滅びる」とは、歴史の鉄則であり、諸行無常と栄枯盛衰を繰り返す歴史に永遠などあるはずもなく、古代ポリス、マケドニア王国、古代ローマ帝国、オスマン帝国、モンゴル帝国、中国の歴代王朝、ブルボン王朝、フランス第一帝政、ナチスドイツ、ソビエト連邦など、強権的な支配で覇権を極めた国家は、すべて崩壊した。しかし、歴史を脱却した民主国家は、崩壊せず永久に存続するという主張である。 すべての民族、文化圏、宗教圏に妥当する網羅的なグランド・セオリー(大理論)である普遍的な歴史(近代化のプロセス。リオタールの用語で言えば「大きな物語」)としての「歴史の終わり」であり、その他の歴史、文化史、技術史、芸術史、スポーツ史、個人史などの個別的な歴史(リオタールの用語で言えば「小さな物語」)は、もちろん不断に変革を繰り返して、継続されていく。 フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張した。しかし、これは、ソビエト連邦が崩壊したら直ちに世界中が民主化され、世界中から戦争やテロが廃絶されるという意味の、楽天的な世界平和論や政治安定論ではない。ソビエト連邦の崩壊によって、「最良の政治体制は何か」「全人類に普遍的な政治体制は何か」「恒久的な政治体制は存在するのか」という社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついた事を意味している。民主主義が正しいとだけ聞けば、民主教育を受けた民主国家の国民は当たり前のように聞こえる。しかし、フクヤマの主張で重要なのは、民主主義は絶対的(全世界のどこを見回してもリベラルな民主主義に対抗できるイデオロギーは存在しない)であり、普遍的(民主主義はどんな民族、文化圏、宗教圏でも問題なく適合する)であり、恒久的(民主体制は人類統治の最終形態であるがゆえに、滅びることはない)なイデオロギーであるという点である(弁証法という概念のなかでは、絶対、普遍、永遠は同じことを意味する)。科学的な証明とその実用化の間には時間差がある。それと同じように、具体的には、世界中が発展途上国も含めてみな民主化されるのはまだ時間がかかり、その間、こと発展途上国は、まだ政情不安定で戦争やテロが起こりやすく、民主国家と全体主義国家との戦争も起こりえて、9・11同時多発テロのように民主主義先進国が全体主義側テロの標的にされることもある。しかし、民主主義各国では、もはや民主体制が内乱や革命によって破綻することは起こり得ない、ということである。よって、フクヤマ的歴史終焉論が現象論的に、社会科学として反証されるときは、現在の先進民主国家体制が崩壊し、次の異なる政治体制に移行したときである。 また、フクヤマは、崩壊したソビエト連邦が核武装していた点にも着目している。究極兵器である核兵器を多数保有し、世界最強規模の軍事力を保持したソビエト連邦が崩壊したことは、ソフトパワー(文化力)が究極のハードパワー(軍事力)を覆した決定的な事件であり、これは長い人類史的にみても画期的な出来事である。最強の軍事国家が崩壊するなど、それ以前の国際政治学の常識では考えられないことだった。これは「''武力こそ正義である''」というハードパワー中心の歴史時代の終わりと、「''ペンは剣よりも強い''」というソフトパワー中心の脱歴史時代の始まりを意味している。 「歴史の終わり」は、度々「共産主義体制にたいする資本主義体制の勝利宣言」といわれるが、厳密に言えば、経済体制よりも政治体制について本質的に述べた書物であり、正確には「世襲なき一組織が政治と経済を強く統制する一党独裁・寡頭政治や、一個人または一王家の指導者原理によるカルト支配・専制政治に対する、万民が平等で民衆が政治家を選出できる民主主義体制の最終的な勝利宣言」と呼ぶほうが本旨に合っている(だから、ニーチェ論が重要になってくる)。フクヤマは資本主義経済、自由主義経済の生産性と効率性を高く評価しているが、民主主義体制の永続性ほど強く資本主義体制の永続性を主張しているわけではないし、その根拠を示しているわけでもない。どのように経済体制や生産構造が変化しても、どのような世界恐慌が起こっても、民主体制そのものが否定されたり、崩壊することはないと指摘しているのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歴史の終わり」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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