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水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日〔水谷浩 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年3月4日閲覧。〕)は、日本の映画美術家〔、美術監督である〔生誕100周年記念 美術監督 水谷浩の仕事 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月4日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる〔。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する〔。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される〔。同校はのちに卒業した〔。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされた〔水谷浩司・水谷浩、日本映画データベース、2010年3月4日閲覧。〕ほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた〔。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し〔、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている〔。1935年(昭和10年)、同社が現代劇のための東京撮影所(現在の東映東京撮影所)を新設、水谷は同撮影所に異動している〔。1939年(昭和14年)には、松竹京都撮影所に溝口健二とともに招かれて移籍した〔〔。 第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)、溝口とともに大映京都撮影所に移籍する〔。その後は溝口とともに児井プロダクション製作の『西鶴一代女』(1952年)、大映京都とショウ・ブラザースの合作『楊貴妃』(1955年)、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)製作の『赤線地帯』(1956年)等の美術を手がけるが〔、1956年(昭和31年)8月24日に溝口が死去した。以降も、松竹京都撮影所や宝塚映画製作所、東京映画等で映画美術を手がけた。 1971年(昭和46年)5月16日、死去した〔。満65歳没。 没後35年が経過した2006年(平成18年)、生誕100年を記念して、同年4月4日 - 9月24日、東京・京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターで、「溝口芸術を支えた伝説の映画美術監督、水谷浩の人と仕事」として、展覧会『生誕100周年記念 美術監督 水谷浩の仕事』が開催された〔。水谷の遺した資料の大半は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈されたが、それ以前の1961年に、溝口健二作品の美術資料の一部は水谷本人の手でフランスのシネマテーク・フランセーズに寄贈されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水谷浩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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