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永作 芳也(ながさく よしなり、1955年9月27日〔『現代日本人名録』1987年、中(け-な) p1611〕- )は、元将棋棋士。1973年に加藤恵三八段門下に入り、1977年初段、1979年四段〔。棋士番号は139。茨城県行方郡麻生町(現・行方市)出身〔〔将棋界・最高峰・竜王戦 情報サイト since 2001/11/20 moved 2004/10/8 〕。 == 棋歴 == * 奨励会入会は18歳で6級と遅いスタートであった。1年余り掛け5級に昇級すると、その後2年で入品。初段、二段を半年余りで昇段し1977年11月に三段となる。三段では2年余り指し、1979年10月3日に良い所取りで13勝3敗で四段昇段を決める〔近代将棋(近代将棋社)1980年1月号 永作芳也記事より〕。 * 四段昇段後の翌年の若獅子戦では、準決勝進出も大島映二に敗れる。順位戦では、1982年の41期に開幕から2連敗もその後8連勝し、10戦全勝の脇謙二と塚田泰明に次ぐ成績を上げるも、順位差で同星の児玉孝一に頭跳ねを食らう。次期は1位で開幕を迎えるも6勝4敗に終わり引退まで昇級に絡むことはなかった〔近代将棋(近代将棋社)1983年2月号 永作芳也記事より〕。 * 1982年5月18日、オールスター勝ち抜き戦で谷川浩司と対局しこれに敗れる。谷川は6連勝を達成し優勝となる。同年には師匠加藤恵三が没している〔。 * 1986年5月9日、棋聖戦1次予選3回戦で森下卓に勝利し、勝数規定により五段昇段〔週刊文春 1987年4月23日号 永作芳也記事より〕。 * 1988年、棋士引退と同時に日本将棋連盟を退会する。最終対局は小阪昇との順位戦最終局で、これには勝利している。3勝7敗であったが、順位差で降級点は引退までつかなかった。退会時には、名人になるために棋士となったが、自分は名人になることができないと知り、これ以上棋士を続けることができない旨を述べていた〔週刊将棋 1988年4月23日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永作芳也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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