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江尻 喜多右衛門(えじり きたえもん、生年不詳 - 元文4年8月19日(1739年9月21日))は江戸時代中期、日向延岡藩の武士。名を延勝(のぶかつ)と称した〔松田(1955) p.9〕。 初め山方代官、のちに郡奉行に就任し、名を喜多右衛門と改めた。 延岡藩家老藤江監物に取り立てられ、岩熊井堰の工事に力を尽くした。後年は物頭格250石の上士に昇進した〔城(1985) p.192〕。 父は江戸詰延岡藩士の江尻徳之助(えじりとくのすけ)〔城(1985) p.89〕。 == 経歴 == *1722年(享保7年) - 領内出北村庄屋らによる用水建設を願い出る訴状がたびたび出され、郡代奉行を経て延岡藩庁に提出される *1724年(享保9年) - 3月、岩熊井堰築造工事着工。8月、暴風雨による河川の氾濫により築堤が決壊・流失し、用水路の埋没被害が出る。 *1725年(享保10年) - 2月、岩熊井堰築造、用水路開削工事再開するもその後もたびたび河川の氾濫による流失と損失を繰り返す。 *1731年(享保16年) - 工事を命じた藤江監物は藩の軍用金流用の疑義との讒言により、3人の子とともに入獄される。長男が獄中で病死。監物も8月27日に獄死した。 *1734年(享保19年) - 江尻喜多右衛門らによって継続された岩熊井堰および出北用水路竣工〔宮崎日日新聞社(1983) pp.76-77〕 *1739年(元文4年)8月19日 - 没。享年不明 *1924年(大正13年)2月11日 - 贈従五位 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江尻喜多右衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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