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沂水県(ぎすい-けん)は中華人民共和国山東省臨沂市に位置する県。沂河(沂水)が流れており、県名もこれに由来する。 == 歴史== 秦代に琅琊郡の下に莒県が設置され、漢初に東部は徐州刺史部琅琊郡東莞県、西部は兖州刺史部泰山郡蓋邑、南部は陽国の東安とされた。後漢になると陽国は廃され沂水は徐州刺史部琅琊国の管轄とされた。後漢末、東莞県と蓋県が郡に昇格、三国時代には魏の徐州刺史部東莞郡東莞県、東安県が設置され、南部は琅琊国陽都とされ、晋代まで踏襲された。297年(元康7年)、東晋は東安郡を設置、その後の南北朝時代では後趙、前燕、前秦、後燕、南燕の活動地域とされ、南燕の慕容徳により東莞県は一時団城と改称された。 隋朝による中国統一が達成されると596年(開皇16年)に東莞県は沂水県と改称、 東安県は沂水県に統合され、琅琊郡の所轄とされ「沂水」の県名が初めて史書に登場している。 622年(武徳5年)、沂水は莒州に移管、634年(貞観8年)、莒州は廃され,沂水県河南道沂州琅琊郡(現在の臨沂)の管轄とされた。宋代は京東東路沂州琅琊郡、金代は山東路莒州、元代には中書省山東西道宣慰司益都路莒州、明代には1376年(洪武9年)に山東承宣布政使司青州府の管轄となった。清朝が成立すると1730年(雍正8年)に莒州の管轄とされたが、1734年(雍正12年)に沂州府に移管された。 辛亥革命により中華民国が成立すると1913年(民国2年)の府制廃止と道制施行により沂水県は岱南道(後に済寧道と改称)の管轄とされ、1915年(民国4年)に済寧道に、1925年(民国14年)には琅琊道に移管された。1928年(民国17年)の道制廃止に伴い山東省直属、1936年(民国25年)には新設された第三区行政督察専員公署所轄の行政区画とされた。 日中戦争期間中は汪兆銘政権の下の華北政務委員会の管轄地とされたが、抗日運動の結果1940年(民国39年)3月に抗日根拠地としての沂水県抗日民主政府が成立、中国共産党分局の指導を受け、1941年(民国30年)以降は山東省戦時工作推行委員会魯中区沂蒙専署に移管された。 抗日根拠地時代はその統治地域が局地的であったことより複雑な変遷をたどり、沂水県中部を沂中県、南西部を沂南県、南部を沂臨辺連県、東南部を沂東県、北東部を沂辺県、北西部を沂源県に分割され、それらの統廃合が繰り返され、1949年(民国38年)7月に再び 沂水県の名称が復活、沂北県と莒沂県(1946年に莒沂辺県より改称)の2県は合併し莒沂県が製膣、沂蒙専署の管轄とされた。 中華人民共和国が成立すると沂水と莒沂の両県は魯中南行政公署沂蒙専署の管轄とされ、1950年5月11日には新設された沂水専署に移管された。1953年8月、沂水専署は臨沂専署に統合されるとともに莒沂県も沂水県に統合された。 1995年4月21日、臨沂行政公署の廃止と共に地級市の臨沂市が成立、沂水県もその所属とされ現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沂水県」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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