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洛獄[らくごく] 洛獄(らくごく)とは、北宋後期、新法・旧法の争いの中で発生した疑獄事件の1つ。同時期に発生した同文館の獄とともに、新法党による旧法党に対する弾圧事件とされている。 == 前史 == 元祐8年(1093年)、哲宗の祖母で司馬光・呂公著・呂大防ら旧法派の補佐を受けて垂簾聴政を行ってきた宣仁太后が没し、哲宗が親政を行うと父・神宗の時代の政治を復活させようとする「紹述」の動きが強まり、哲宗も章惇・李清臣・蔡卞ら王安石の新法を支持していた新法派を復権させ、彼らは次々に要職に就任していった。彼らは旧法派政権下で徹底した糾弾と追放処分を受けたことに対する報復として今度は旧法派を糾弾と追放処分することにした。 既に死去していた司馬光や呂公著に対しては贈諡や生前の官職の剥奪などが、健在であった呂大防・蘇轍・劉摯・劉安世らを左遷し、弾圧が最高潮に達した紹聖4年(1097年)には生存者は嶺南など辺境の下級官人として配流同然の状態に置かれることになった。その主な理由として、司馬光ら旧法党政権の首脳らが宣仁太后のために哲宗を退位させて太后所生の皇子である徐王・趙顥を擁立しようとした容疑が挙げられ、それに該当させるのが無理な人々には元祐4年(1089年)に宣仁太后が哲宗お気に入りの女官を宮廷から追放した事件に関連して太后に女官を讒言した容疑が挙げられた。 こうした状況の中で、旧法党による陰謀と称せられる告発が相次いで発生する。その最初のものが当時「河南府」と称されていた洛陽を舞台とする洛獄であった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洛獄」の詳細全文を読む
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