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津田 永忠(つだ ながただ、寛永17年(1640年) - 宝永4年2月5日(1707年3月8日))は、江戸時代前期の岡山藩士。岡山藩主の補佐役として土木事業を行い、藩の産業・生活の基盤造りに尽力した。 == 生涯 == 現在の岡山市弓之町で、600石取りの岡山藩士津田左源太の三男として生まれる。幼名は又六。字は最初、八大夫のちに重二郎、晩年は父の名を嗣ぎ左源太と名乗る。 14歳のとき藩主・池田光政に初めて拝謁し、児小姓に取り立てられる。光政に才能を認められ20歳で児小姓仲間横目役となり、のち150石取りに昇進。25歳で300石取りとなり藩政の最高評議機関である評定所に列座する。 寛文7年(1667年)和意谷池田家墓所造営の総奉行に任命される。これが土木事業の最初の仕事となった。これは京都妙心寺護国院にあった池田家先祖の墓を和意谷敦土山(あづちやま、備前市吉永)に改葬する事業である。 寛文9年(1669年)旭川の洪水から岡山城下を守るため、放水路である百間川を開削する。翌、寛文10年(1670年)には閑谷学校建設を任された。また、閑谷の南方にある友延新田へは、古代中国の井田制による地割を実施した。寛文12年(1672年)光政が隠居し綱政が藩主となる。延宝元年(1673年)閑谷学校の東部に屋敷を造営する。 岡山藩も新田開発に注力するようになり、延宝7年(1679年)初の藩営干拓事業として倉田新田約300ヘクタールが開かれた。新田開発においては普請奉行の田坂与七郎や近藤七助らが、永忠の補佐役となった。 天和2年(1682年)には郡代となる。貞享2年(1685年)には幸島新田557ヘクタールが開かれる。貞享4年(1687年)大名庭園である後楽園の造営に着手、元禄13年(1700年)に完成した。元禄4年(1691年)沖新田が開かれ、藩が手がけた干拓総面積は約1,918ヘクタールに達した。元禄10年(1697年)岩盤掘削等の難工事の末、田原用水工事を完成させる。元禄11年(1698年)藩主の菩提寺となる曹源寺を造営。宝永元年(1704年)65歳で閑谷に隠居する。 宝永4年(1707年)病を得て没する。享年68。 藩の基盤整備に尽力した永忠であったが、嫡子の八助永元(梶坂左四郎)には苦労していたようである。博打に手を染めるなど放蕩を繰り返し、座敷牢に押し込められたが逃亡し行方不明となるなどしていたようだ。これにはさすがの永忠も堪忍袋の緒が切れたようで元禄11年に廃嫡している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田永忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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