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深作 清次郎(ふかさく せいじろう、1911年5月18日〔第13回参議院議員通常選挙東京都選挙区政見放送 での経歴紹介から〕 - 没年不詳)は、日本の政治運動家、街宣右翼(反ソ決死隊)、印刷業者。 == 略歴 == * 茨城県那珂郡出身。地元の尋常小学校卒業後、1924年に上京し古書店で丁稚奉公する。1930年、印刷工場勤務を経て黒龍会の内田良平門下に加わったと自称していた〔この時期は大本の活動家で、第二次弾圧を期に離脱したという説もあり、出自は自称通りであるか定かではない〕。太平洋戦争(大東亜戦争)で陸軍に応召し、関東軍にて軍務に就く。 * 復員後、一人一党の『反ソ決死隊』を旗揚げし、本業の傍ら反共運動に着手。 * 安保闘争が激化した1960年、岸内閣の意を受けた児玉誉士夫や川島正次郎から反共活動資金を供与された清水亘(大日本独立青年党)の呼び掛けに応じ、有田正憲(国民政治連合)、小田俊与(人道主義政治連盟)、南俊夫(自称:世界連邦創始者)、杉本一夫、岸本力男〔後の稲川会越路家一家三代目、全愛会議理事長〕、福田進(防共挺身隊)、山陰探月、別城遺一ら右派常連候補が糾合した『議会主義政治擁護国民同盟』〔『大日本独立青年党議会主義政治擁護国民同盟』とも、略称:議擁同〕に加わる。これを期に選挙闘争を本格化し、革新勢に対する減票工作、言論妨害などに奔走した。 * 1961年、小林楠扶〔博徒系広域指定暴力団の住吉一家小林会初代会長〕が立ち上げた楠皇道隊(後の日本青年社)の社友に納まる。住吉一家の客分扱い〔深作は準構成員〕は四半世紀近く続き、1975年、1979年、1983年の東京都知事選挙には同結社〔選挙期間中確認団体となった〕の推薦で立候補している。 * 日本青年社の支援の下、神奈川県川崎市高津区宮前平(現:宮前区)の自宅で『青年錬成道場』〔愚連隊、暴走族上がりの青少年を「思想改造」し、街宣右翼団体構成員に育成する私塾〕を主宰していたが、1985年頃に埼玉県新座市へ転居した。同時期から活動資金に困窮し、選挙公報で寄付を募るようになった。 * 昭和時代が終焉する1980年代末頃から不活発化し、程なく没したと見られるが不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「深作清次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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