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湯川 直光(ゆかわ なおみつ)は、戦国時代の武将で、湯川衆の頭目。畠山氏の重臣で湯川氏第12代当主、紀伊亀山城(現・和歌山県御坊市湯川町丸山)第11代城主で、河内守護代も兼ねた。湯川政春の長男。 == 概要 == 湯川氏は甲斐源氏の流れを組み、熊野街道の要衝であった道湯川(現・和歌山県田辺市中辺路町道湯川)を領したことに始まり、南北朝時代に湯川光春が牟婁郡から日高郡にかけて広大な勢力を築いて亀山城を築城した。戦国時代に入り、直光は当時の交通の要衝であった小松原館(現・和歌山県立紀央館高等学校、湯川神社)を築城して平時の居館としたという〔歴史散歩30『和歌山県の歴史散歩』 紀中の海岸を行く p188 和歌山県高等学校社会科研究協会編集〕。 『紀伊続風土記』によると、享禄元年(1528年)、摂津江口の戦いで三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂(現・浄土真宗本願寺日高別院)を建立し、次男の信春を出家させて住職としたという。 元来、河内と紀伊は畠山氏の領国であったが、永禄元年(1558年)、河内から守護畠山高政が河内守護代安見宗房に追放され紀伊に下向してきたため直光は迎え入れ、翌永禄2年(1559年)に三好長慶と湯川氏の尽力により河内に返り咲いた高政は、この功を高く評価し直光を宗房に代わる河内守護代に任じた。ところが、河内を上手く治められなかったため永禄3年(1560年)に高政に守護代を罷免させられ紀伊へ退去、宗房に交代させられた。これが長慶の河内侵攻を招き、高政・宗房は河内を奪われ紀伊へ亡命した。 永禄5年(1562年)3月5日、河内奪還を狙う高政の命で湯川衆を率いて従軍し、河内で長慶の弟・義賢が率いる三好軍を撃破した(久米田の戦い)。5月19日の教興寺の戦いでは三好長逸らの軍勢を雑賀衆と共に迎撃していたが、長慶の子・義興の軍勢が参加したことで劣勢となり戦死した。跡は長男の直春が継いだ〔今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社(MC新書)、2007年、P214 - P225、P239 - P242。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯川直光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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