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湯浅倉平 : ミニ英和和英辞書
湯浅倉平[ゆあさ くらへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆ]
 【名詞】 1. hot water 
: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

湯浅倉平 : ウィキペディア日本語版
湯浅倉平[ゆあさ くらへい]

湯浅 倉平(ゆあさ くらへい、1874年明治7年)2月1日 - 1940年昭和15年)12月24日)は、日本内務官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等男爵〔。初名は石川倉之丞。
== 生涯 ==
山口県豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に医師の子として生まれる。のち実父が福島県士族湯浅家の養子となったため、倉之丞も同家の戸籍に入って「湯浅倉平」と改称した〔書籍などで湯浅を「山口県出身」「福島県出身」とする2種類の記述が存在するのはこうした事情による。なお、墓所も山口県下関市及び福島県郡山市の2箇所にある〕。
豊浦中学旧制山口高等学校を経て、1898年東京帝国大学法科大学政治学科〔現・東京大学法学部〕卒業。同年、内務省に入省。岡山県知事静岡県知事を経て、1915年に帝大時代の恩師でもある一木喜徳郎内相の推挙によって内務省警保局長に就任した。1916年10月5日、貴族院議員勅撰同成会所属)に任じられて〔『官報』第1256号、大正5年10月6日。〕、原敬内閣郡制廃止に反対論を唱えた。1923年関東大震災が発生すると、後藤新平内相の招請により警視総監に任じられた〔以前に就任していた警保局長からは降格人事となるが、治安回復のための「大物人事」だった〕。震災後の混乱を鎮めるが同年12月虎ノ門事件の責任を負って懲戒免官となる。しかし翌年には懲戒免官を解かれ内務次官として復職し、普通選挙法の制定に尽力した。
斎藤実総督の下で1925年朝鮮総督府政務総監に就任。1929年会計検査院長1932年斎藤実内閣成立時には一時は内相候補に擬せられた〔1932年5月23日付『東京朝日新聞』。〕〔結局は山本達雄が就任している〕。その後、1933年宮内大臣に就任し、1936年に発生した二・二六事件では、岡田啓介総理安否不明、斎藤実内大臣死亡、鈴木貫太郎侍従長重体という未曾有の危機的状況の中、反乱将校たちの掲げる「昭和維新」に反対する立場から、昭和天皇を補佐。反乱将校に同情的な本庄繁侍従武官長とは異なる対応を見せた。
事件直後の3月6日、殺害された斎藤の後任として〔本命視されていた近衛文麿は辞退した。〕〔形式上は斎藤と湯浅の間に、湯浅就任直前の一日だけ一木喜徳郎が枢密院議長との兼務で就任。〕、内大臣に就任する。生前に爵位を持たず〔爵位のない近代内大臣は湯浅ただ一人。〕、また閣僚経験もない湯浅の内大臣就任は、軍部政党と一定の距離を置く穏健派で謹厳実直な人柄が評価されたためだった〔ただし、上記の宮内大臣就任に際して、立憲政友会からは、「湯浅氏は民政党系の人で貴族院においても相当政党的に活動した人」と批判を受けたことはある(湯浅の属していた同成会は親民政党系会派とみられていた)。1933年2月16日付『東京朝日新聞』。〕。
内大臣時代は、老齢の元老西園寺公望を助けて宮中良識派の一員として陸軍の専横に対抗した〔『一軍人の生涯 提督・米内光政』(緒方竹虎著、文芸春秋新社)によれば、町野武馬(陸軍大佐、張作霖顧問)と湯浅が対談した際、町野が陸軍批判をしたところそれ以上の陸軍批判を行った。その場限りの話にしようとした町野に対し湯浅は「陸軍省でこのままお話になっても一向に差支えない」と答えた。町野は湯浅を「生きた英雄」と語っている。〕。ただ1937年には、宇垣一成が組閣の大命を受けながら陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に陸軍大臣を出さずに大命拝辞に至った際に、宇垣が「陸軍に陸相を出すように命じる詔勅を出してもらいたい」と申し出たのを断っている。その直後に内閣奏薦手続が改訂され、内大臣が後継首班奏薦の第一責任者となり〔手続き上は「元老と協議の上」という文言はあった。〕、第1次近衛内閣平沼内閣阿部内閣の生みの親となる。1940年に同じく親米的な姿勢をとっていた米内光政海軍大臣首相就任を主導したが、その後病気により辞任〔6月1日。後任は木戸幸一。〕。その直後に米内内閣は陸軍が畑俊六陸相を単独辞職させて後任陸相の推薦を拒否したことから総辞職し、代わった第2次近衛内閣日独伊三国同盟が成立して日本は反米英路線へ大きく舵を切ることになった。湯浅は退任後半年、西園寺の死のちょうど1ヶ月後の1940年12月24日に牛込区の自宅において死去した。肺気腫を患っていたという。その死の直前、12月24日付けで男爵爵位を授爵したが〔『官報』 第4193号 「授爵、叙任及辞令」 1940年12月27日。 〕、後継者が女戸主(倉平の妻)のため爵位を返上した〔『官報』 第4228号 「華族ノ栄典喪失」 1941年2月12日。 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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