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湯浅 浪男(ゆあさ なみお、1927年 - )は、日本でのキャリアを経て台湾に帰化した映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元映画館経営者である〔キネ旬, p.441.〕〔田中, p.85-86.〕〔便覧, p.66.〕〔年鑑, p.325, 386.〕〔年鑑, p.332-333, 382.〕〔映画「神童桃太郎」「桃太郎斬七妖」(1970、台湾)について 戦後台湾における「桃太郎」 、武久康高、比治山大学、2009年12月付、2014年8月29日閲覧。〕〔黃, p.238-249.〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''、日本映画製作者連盟、2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''、KINENOTE, 2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''、日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。〕〔''Namio Yuasa''・''Mu-hua Tang''、インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月29日閲覧。〕。20年間におよぶ映画館勤務から小千谷東映支配人を経て、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社第7グループ事務所を設立、興行畑から製作畑へ転向する〔〔〔〔〔。1964年(昭和39年)6月、岩佐 浪男(いわさ なみお)の名で監督デビュー、翌1965年(昭和40年)からは本名に戻し、黎明期の成人映画を量産、松竹との配給提携も行い、安藤昇の映画初主演作『血と掟』および初期出演作を監督する〔〔〔〔〔〔〔。1966年(昭和41年)に行った台湾との合作をきっかけに活動拠点を台湾に移し、1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する〔〔〔。帰化後の本名は湯 慕華(とう ぼか、タン・ムーファ)〔〔〔。別名湯 淺あるいは湯 濳(とう せん)〔。 本項では日本での活動の長さと作品量に鑑み、表題を日本名とした〔〔〔〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == === 興行から製作へ === 1927年(昭和2年)、中華民国ハルビン特別市(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に生まれる〔。 内地に引き揚げた後、1940年代に映画館勤務を始め〔〔、1953年(昭和28年)2月に茨城県猿島郡古河町(現在の同県古河市)の新興館の経営が変わり、館名を古河セントラル劇場(経営・森田三郎、のちの古河オデオン)と変更〔年鑑, p.344.〕〔総覧, p.33.〕、湯浅は26歳で同館の支配人に就任している〔。同館は戦前から存在する古い映画館で、新興館になる前は共楽館という館名であった〔年鑑, 10章 p.48.〕。その後、1955年(昭和30年)には、古河セントラル劇場を退職して同県水戸市の水戸大映映画劇場(経営・間宮厚)に移籍、同館の支配人に就任している〔〔便覧, p.31-32.〕。同館支配人を8年間務め〔〔、1963年(昭和38年)には新潟県小千谷市の小千谷東映を経営〔、映画館で20年のキャリアを積む〔〔。 それに並行し、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社として第7グループ事務所を設立〔〔〔、事務所を東京都港区赤坂新町(現在の赤坂7丁目5番34号)のリキビルに置き、湯浅は同社の代表を務めた〔。同社設立第一作として、成人映画『熱いうめき』を製作、監督として元新東宝の三輪彰を招いた〔〔〔〔〔、2014年8月29日閲覧。〕。同作は、1963年(昭和38年)4月25日に公開された〔〔〔〔〔。三輪は、同作のあと『成熟への階段』(1963年11月公開)、『濡れた手』(1964年5月公開)を監督したがこれで降板し、1964年(昭和39年)6月に公開された『夜の魔性』については、湯浅が岩佐 浪男の名で監督した〔〔〔〔〔。翌1965年(昭和40年)1月に公開された湯浅の監督作『禁じられた遠い道』からは、本名に戻した〔〔〔〔〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、湯浅の名を挙げている〔。 湯浅の事務所には、同じく赤坂に事務所を構える安藤昇が顔を出しており、湯浅は安藤の著書の映画化と出演を持ち掛け、『血と掟』の企画を実現する〔〔〔〔〔〔。同作は松竹が配給して全国公開され〔〔〔〔〔〔、同年度の松竹の配給作品で最高の興行収入を上げている〔松竹, p.276.〕。以降、安藤組関連のヴァイオレンス映画を数本監督し、松竹に供給することになる〔〔〔〔〔〔。1966年(昭和41年)6月に公開された『危険な戯れ』(主演松井康子)以降は、同じ赤坂の国際ビデオ(代表・建部博、1962年5月設立〔〔)と提携して、映画製作を行った〔〔〔。「独立プロ初の十大女優総出演による超大作」と銘打ち、香取環、松井康子、谷口朱里、可能かづ子、飛鳥公子、桂奈美、清水世津らが出演した成人映画『悲器』(1966年9月公開)からは、国映(代表・矢元照雄、1957年6月設立〔)と提携した〔〔〔〔60年代まぼろしの官能女優たちPART II 、ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年8月29日閲覧。〕。同年11月、台湾との合作『母ありて命ある日に』をきっかけに台湾に渡った〔〔。 台湾では、同年中に『霧夜的車站』および『東京流浪者』を公開し、日本に増して劇場用映画を量産しており、1969年(昭和44年)には台湾(中華民国)への帰化を申請している〔〔〔。両作には東條民枝(旧名・君和田民枝)、神原明彦〔、2014年8月29日閲覧。〕、山本昌平、津崎公平、当時湯浅の助監督であった安藤達己(1938年 - 2013年)が出演しており、津崎は『青春悲喜曲』『懐念的人』、安藤は『難忘的大路』にも出演している〔。1970年(昭和45年)には、同地において1967年(昭和42年)に公開されていた『大忍術映画 ワタリ』(監督船床定男、日本公開1966年7月21日)〔, 2014年8月29日閲覧。〕で絶大な人気を得た少年俳優金子吉延を日本から招聘し、金子を主演に『神童桃太郎』『桃太郎斬七妖』の2作を製作、湯浅はこれを湯 慕華の名で監督している〔〔。1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する〔〔〔。 『日本映画監督全集』の湯浅の項を執筆した山根貞男は、1975年(昭和50年)の夏に日本に一時帰国、その後台湾に戻ったという話を伝えているが〔、その後の消息は不明である。台湾で22作の劇場用映画を監督、あるいは脚本提供していることがわかっている〔。『悲器』の撮影技師であり、ともに台湾に渡り、『霧夜的車站』等の撮影をした中條伸太郎(1934年 - 2001年)〔、2014年8月29日閲覧。〕〔中條伸太郎 、 、2014年8月29日閲覧。〕は、2001年(平成13年)7月2日に台北で亡くなっており〔、湯浅の助監督を務め台湾では俳優として出演した安藤達己も、2013年(平成25年)2月7日に亡くなった〔安藤達己監督・安らかに… 、ひし美ゆり子、2013年3月15日付、2014年8月29日閲覧。〕。湯浅が存命であれば、2014年(平成26年)には満87歳の高齢である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯浅浪男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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