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源 伴存(みなもと ともあり、寛政4年(1792年)3月 - 安政6年6月18日(1859年7月17日))は、江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者・藩医。翠山、翠嶽、紫藤園などと号し、通称十兵衛。畔田 伴存(くろだ ともあり)、畔田 翠山(くろだ すいざん)、畔田 十兵衛などとも。『和州吉野郡群山記』『古名録』をはじめとする博物学の著作を遺した。 == 生涯 == 源伴存は寛政4年(1792年)、現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄20石の身分であったが、時の藩主・徳川治宝に学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた。 薬草園管理の任にあることで、研究のための余暇を得たとはいえ、20石のわずかな禄では、書物の購入も研究のために旅に出ることも意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった〔上野35 〕。 また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は、弘化2年(1845年)に伴存の存命中に唯一刊行された著書『紫藤園攷証』甲集にふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった〔上野39-40 〕。この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた。 このように、理解ある藩主に恵まれたことや良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した〔杉本273 〕。 伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して、25部以上・約290巻にも及ぶ多数の著作を著した〔奈良県史編集委員会188 〕が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である〔上野34 、杉本280-281 〕。文政5年(1822年)に加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく〔上野37 〕、伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである〔上野217 〕。 その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である『和州吉野郡群山記』も、その中のひとつである。安政6年(1859年)、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた〔上野45 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源伴存」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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