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源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。 == 生涯 == 永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、院の孫鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから元永2年(1119年)源姓を賜り臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に任ぜられる〔無位からいきなり三位に叙せられるのは極めて異例であり、嵯峨源氏の源定以来のことであった。また、この昇進については白河院による有仁の父輔仁親王への配慮であったことが窺われる。「今度叙三位、依父親王之哀憐歟」『中右記』8月14日条〕。同年、堀河・鳥羽両天皇の乳母藤原光子の希望により、藤原公実と光子の間の娘(源有仁室)と結婚〔『長秋記』元永2年8月7日条〕。翌保安元年(1120年)には権大納言に任ぜられる等、その後も急速に昇進し、保延2年(1136年)34歳で従一位左大臣に至り、花園離宮を賜った事から花園左大臣と呼ばれた。晩年は病気により朝廷への出仕が困難な状況であったといい〔『台記』久安3年2月3日条〕、久安3年(1147年)2月3日に出家、成覚と号するが、間もなく薨去した。 詩歌・管絃(琵琶・笙)・書に秀で、また儀式や故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。また、洒落好みであり、公家の化粧・鉄漿・引眉の風習は、この人より始まると言われる。 日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。その逸文は『御産部類記』に天治元年(1124年)3月、5月、6月、天治2年(1125年)4月、5月、6月条が、『園太暦』に大治3年(1128年)正月、永治2年(1142年)4月、康治3年(1144年)4月条が伝わる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源有仁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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