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源 舒(みなもと の のぶる、天長9年(832年)〔『日本三代実録』の享年50による。『公卿補任』では享年54とし、逆算すると天長5年(828年)生まれとなる。〕 - 元慶5年11月29日(881年12月23日))は、平安時代前期の公卿。嵯峨源氏、参議・源明の長男。官位は正四位下・参議。西七条宰相と号す。 == 経歴 == 仁明朝において蔵人を務めたのち、承和14年(847年)無位から従五位下に直叙される。文徳朝では、斉衡2年(855年)美濃権守、天安2年(858年)雅楽頭を歴任する。 文徳天皇の崩御後まもない同年9月に左兵衛権佐に任ぜられると、同年11月の清和天皇の即位に伴い従五位上に叙せられる。清和朝では、貞観5年(863年)左近衛少将、貞観10年(868年)左近衛中将、貞観13年(871年)蔵人頭、貞観16年(874年)右大弁と文武の要職を兼ねる一方で、貞観6年(864年)正五位下、貞観9年(867年)従四位下、貞観15年(873年)に従四位上と順調に昇進を果たす。貞観17年(875年)には参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間の貞観14年(872年)には、渤海国大使・楊成規らが平安京に入京した際、勅使として鴻臚館に赴き、渤海国王・大玄錫の親書及び献上品の虎・豹・熊の毛皮と蜜などを実検し受け取っている〔『日本三代実録』貞観14年5月18日条〕。 元慶元年(877年)に正四位下・左大弁に叙任され、陽成朝でも引き続き近衛中将に大弁と文武の顕職を務める。元慶3年(879年)に官人の給与に充てるために畿内諸国に計4000町の官田が設置(元慶官田)された際には、山城国班田使を務める〔『日本三代実録』元慶3年12月8日条〕。 元慶5年(881年)2月に左大弁を去り、9月には左近衛権中将から右衛門督に転じたのち、同年11月に薨去。享年50〔。最終官位は参議正四位下行右衛門督兼讃岐守。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源舒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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