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澤田美喜 : ミニ英和和英辞書
澤田美喜[び]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

澤田美喜 ( リダイレクト:沢田美喜 ) : ウィキペディア日本語版
沢田美喜[さわだ みき]

沢田 美喜(さわだ みき、1901年9月19日〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、3頁。〕〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、327頁。〕 - 1980年5月12日〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、342頁。〕)は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ〔「特集 三菱最強伝説 家系解剖 三大創業家の華麗すぎる閨閥図」、『週刊ダイヤモンド』2016年1月30日号、52-53頁。〕、外交官の沢田廉三と結婚〔。4人の子に恵まれる〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、99頁。〕。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
== 略歴 ==

* 1901年9月19日三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる〔〔。岩崎家宗教真言宗だった〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、35頁。〕。母・寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。伯爵加藤高明(元内閣総理大臣)は義理の伯父(妻が久弥の姉)〔〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、327頁。〕、元京都府知事の木内重四郎男爵幣原喜重郎(元内閣総理大臣)は義理の叔父(ともに妻が久弥の妹)であった〔〔。
* 1903年1月20日:妹・澄子(伯爵甘露寺受長の弟・方房に嫁ぐ)誕生〔。
* 1907年東京女子高等師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)に入園〔。
* 1908年7月8日:妹・綾子(福澤諭吉の孫・堅次に嫁ぐ)誕生〔。
* 1916年東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)を中退し〔〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、38-39頁。〕、津田梅子らの家庭教師について学習〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、40頁。〕。
* 1922年7月クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗〔。
* 1923年:夫・廉三のアルゼンチンブエノスアイレスへの転任に伴い同行〔。長男・信一誕生〔。4月8日、祖母・喜勢死去〔。
* 1924年:廉三の中国北京への転任に伴い同行〔。次男・久雄声楽家安田祥子の夫〔)誕生〔。
* 1925年:三男・晃(洗礼名ステパノ、聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名はここに由来)誕生〔。
* 1927年日本に帰国〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、328頁。〕。
* 1928年:長女・恵美子誕生〔。
* 1931年:夫・廉三の英国ロンドンへの転任に伴い同行〔、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。
* 1933年:夫・廉三のフランスパリへの転任に伴い同行〔。ジョゼフィン・ベーカーと出会い友人となり、ジョセフィンは後に美喜の良き理解者として活動を支援していく。またこのころマリー・ローランサンの弟子となる。このころのパリ社交界でコティノーベルらと親交を持つ。
* 1935年:夫・廉三の米国ニューヨークへの転任に伴い同行〔。パール・S・バックと出会い友人となる。
* 1936年:米国より帰国〔。
* 1937年9月12日:妹・澄子死去〔。敬虔なクリスチャンとなった美喜の影響もあり、死に際して洗礼を受ける。
* 1939年:日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となる。入館者の相談によく乗り、また野球チームのマネージャーになるなど、母親のように慕われた〔立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)80頁〕。
* 1944年3月10日:母・寧子死去〔。
* 1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死〔。海軍志願兵だった。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1947年にはG2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜は誕生した子供の育児指導をしている〔立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)202頁。この職員は元帝国海軍中尉で、美喜の長男沢田信一と同部隊という縁があった。〕。
* 1947年2月:列車内で死亡した混血児の母親と間違われ、混血児救済を決心。
* 1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する〔。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。
* 1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち美喜および長女恵美子の親しい友人とななる。、グレースはモナコ公妃となったあとも美喜の活動の良き理解者として支援する。
* 1950年:ホームに基金を作るため、再びアメリカで講演会を行う。
* 1953年学校法人聖ステパノ学園を創立〔。ホームの小学校と中学校である。
* 1955年: 昭和天皇・皇后訪園。12月2日:父・久弥死去〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、329頁。〕。
* 1962年ブラジルアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。
* 1967年4月2日に三兄・恒弥が、9月8日に長兄・彦弥太が相次いで死去。
* 1970年12月8日:夫・廉三死去〔『黒い肌と白い心』、創樹社版、330頁。〕。
* 1980年5月12日:スペインマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「沢田美喜」の詳細全文を読む




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