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澱橋(よどみばし)は、宮城県仙台市青葉区にある橋である。広瀬川に架かり、市道澱橋通線〔仙台市道青葉1343号・澱橋通線(最小幅員6.96m、最大幅員99.20m、延長1397.0m)〕を通す。古くは淀橋ともいった〔『仙台鹿の子』、『残月台本荒萩』ともに「淀橋」。〕。北の国道48号と南の川内地区を結ぶ位置にある。幅12m、長さ137mの連続桁橋である。 == 歴史 == === 江戸時代の澱橋 === 仙台城下町開府期には澱橋の位置に橋はなかった。ただし、やや下流に支倉橋が架けられており、左岸の仙台中町段丘Ⅰ〔長町-利府線・大年寺断層に沿う地形面区分図 (地震調査研究推進本部)〕にある支倉町に北詰()があり、右岸の仙台下町段丘Ⅱ〔にある川内明神横丁〔「仙台地図さんぽ」(ISBN 978-4-9903231-7-2 有限会社イーピー 風の時編集部)による1912年(大正元年)の地図に記載されている町名は「元支倉丁」〕に南詰()があって、両者の間を繋いでいた〔番号76 『仙台城下絵図』 (宮城県図書館「古絵地図 」。推定延宝6年(1678年)-8年(1680年))〕。しかし、元禄7年(1694年)8月3日に大水で流されてしまった。 すると、場所を上流側に移して澱橋が架けられることになった。江戸時代の地誌には元禄8年(1695年)8月半ば頃に工事を始め、9月半ばに竣工したとあるが〔『仙台鹿の子』(1953年刊『仙台市史』第8巻217頁)では8月半頃開始で完成が9月半。『残月台本荒萩』巻之二(『仙台叢書』第1巻278頁)では8月開始で9月半に完成。〕、『伊達治家記録』には元禄7年(1694年)10月3日に澱橋命名の記事があり、この年の建造とする説もある〔1954年刊『仙台市史』第1巻152頁。〕。北岸では橋の建設にともなって、中町段丘Ⅰ〔と下町段丘Ⅰ〔のへくり沢(蟹子沢)左岸(東岸)との間に坂道が建設されて新坂と命名された。新坂に接続する中町段丘の南北道は新坂通と命名され、他方、新坂に接続する下町段丘の広瀬川左岸沿いの東西道はへくり沢右岸から澱橋北詰まで澱町と称した。以降、江戸時代を通じて、川内から広瀬川を渡る橋は大橋、仲の瀬橋とこの澱橋の3つしかなかった。 藩当局が持つ御修覆帳によれば、長さ46間(約95m)、幅2間半(約6.3m)あった〔小倉強「仙台の市街及び土木建築」436頁。〕。安永7年(1778年)頃に書かれた『残月台本荒萩』という地誌によれば、橋長63間、幅3間半あった〔『残月台本荒萩』巻之二、『仙台叢書』第1巻279頁。〕。天保4年(1833年)の『御城下町割絵図』には「淀橋」の名称で、右岸(南岸)の川内から中州までの橋として描かれており、中州と左岸(北岸)との間には橋は描かれていない〔番号84 『御城下町割絵図』 (宮城県図書館「古絵地図」。天保4年(1833年))〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「澱橋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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